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カトリック教会の日曜日の説教

2019年/C年説教=召ばれています、いつも

復活節第5主日:不十分でも絆を保ち続けること。新しい何かが生まれる

生き方に関しても、不十分ながらも目指す方向が間違っていない限り、少しずつではあっても、実現へと近づいているのです。弱くても、不十分でもいいんです。大事なことは、「かかわり」を捨てないことです。
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復活節第4主日:羊飼いは羊をよく知り、羊はその声を聞き分ける

イエスは、「わたしと父はひとつである」ことを伝えるべく、羊と羊飼いの話をされます。ここで重要視されているのは、羊飼いと羊の絆の問題です。「わたしの羊」と「わたし」との間にある絆が、いかに強いものであるかが示されています。羊飼いの思いが羊に通じるというのです。なぜなら「わたしは羊を知っている」からです。
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復活節第3主日:イエスの復活顕現は、わたしたちの信仰の要、励まし

イエスの弟子たちへの復活後の出現話は、イエスを信じる今のわたしたちへの、イエスと弟子たちからの「信仰の分かち合い」のように思えます。イエスを信じる“あなた!”、福音の話をどのように思い、感じていますか。
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復活節第2主日:復活したイエスは、わたしたち一人ひとりを心にかける

トマの救いは、懐疑的で、絶望のどん底にある人々に、前を見て、元気に生きることができるよ、というメッセージになりました。また、わたしたちに救いを確信させる出来事であります。これは、わたしたち一人ひとりを心にかけてくれる神の業です。
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復活の主日:復活の魅力は、どんなことがあっても「信じる心に向かう力」

どんな辛さの中にあっても、その状態は意味があって、無駄に終わることはないという確信、信じる心が大事です。この信仰は、父なる神がわたしたち一人ひとりを心に留め、しっかりと面倒を見てくれているという確信から育ってきます。
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四旬節第5主日:人はゆるされて成長し、他者に開く度量も備わっていく

強調したいことは、人には他人を裁く資格があるのかということ。絶えずゆるされ続けてきた存在です。律法学者たちも、そのことに気づかされたのではないでしょうか。悪だくみを考えつつ、自らの何たるかに気づかされ、最終的にはイエスに救われたのです。
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四旬節第4主日:「親子のかかわり」こそが人と信仰が成長する原動力

幼い頃に培ってきた親子のかかわり、それは形を変え、中身を濃くしながら成長していきます。「放蕩息子」から「孝行息子」になる原点は、やはり、親子のかかわりにあります。それも幼い時の親子・家族関係といえないでしょうか。
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四旬節第3主日:ちょっとの悔い改めでも良い!神はそこに入ってくる

「神と人との共同作業」によってわたしたちの日々は進行していきます。一人ひとりの安全も、多くの人びとの「共同作業」の力によって得られ、維持されていくのでしょう。一人ひとりがちょっとの悔い改めを進めたいものです。
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四旬節第2主日:人の顔が一番輝くのは、内面と外面が一つになったとき

神を向き、神との関わりを感じれば感じるほど、祈りは深まります。深まっていけば、いい顔になっていきます。その究極が今日のご変容のイエスの姿ではないでしょうか。たとえ、今の「わたし」が神を感じることができなかったとしても、祈り続けることです。繰り返すことです。いい顔になっていきますよ。
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四旬節第1主日:どんな状況でも!神は人を正当に評価し支えて下さる

イエスが伝えたいことは、「わたし」の人生、日々の歩みは神に向けられたものであるということではないでしょうか。イエスが、ご自身の使命を果たしていこうとするその初期に、このような体験をなさったということは、わたしたちの人生の歩みの「しるべ」を示してくださったのでしょう。
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年間第8主日:人と人との繋がりの基は、イエスの心と態度に求めたい

私たちは他者の欠点弱点をなにかと気にしがちですが、イエスは他の人の重荷に心を向け、その足りなさ、未熟さには寛大な心と態度を示し、希望に満ちた力をお与えになっていました。その極みが、十字架上での祈りです。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23章34節)
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年間第7主日:平和の原点は、イエスの十字架上のゆるしの祈りと業に

イエスご自身が十字架上でゆるしを祈りながら、ゆるすことのすばらしさを示し行動しつつ亡くなられたのです。わたしたち一人ひとりが、イエスに倣って変化、成長していけば、現代社会、家庭にとって、真の平和、希望が訪れる、と諭されます。
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年間第6主日:弱さを認めて誰かに頼る率直さの先に、神は待っている

今日の福音に何回も出てくる「さいわい」という言葉は、逆境にある人々へのイエスの叫びとも言えます。「喜びなさい」という言葉に置き換えることができるでしょうか。神がともにいるから裏切られることは絶対にないのです。
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年間第5主日:イエスの選びは確か。ペトロは、ありのままを差し出した

イエスの選びによる恵みの結果とは言え、ペトロがイエスの呼びかけに自分を開いて委ねた姿勢をも見逃すわけにはいきません。私たちの日常でも同じようにイエスは「呼びかけ」ているのです。自分の限界を知るとともに、ありのままを差し出しましょう。
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年間第4主日:イエスは、地縁・血縁などで閉ざされた絆を解放する

地縁、血縁でつながれている世界は、得てして新しいものを拒否する傾向が強い気がします。イエスの故郷、ナザレ人の絆の強さが、イエスを拒否してしまったのです。こうして、イエスの十字架への歩みが始まったのです。
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年間第3主日:平和は「個」の信頼の構築から。その基にはイエスがいる

大事にしなければいけないのは、「信じていくこと」。その上に立って、お互いは分かり合えるし、平和への機運も高まってくるものです。自ずと人はそちら(平和・安寧)の方向に向かっていきます。その要にイエスはいます。
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年間第2主日:イエスは日常の「些細なこと」でも取り上げて下さる

マリアはそっとイエスに囁きます。「ぶどう酒がありません」と。さらに、給仕している人たちにも言います。「何でもこの人の言うとおりにしてください」と。マリアの配慮は、イエスがいつどのような形であれ、人の営みに関わってくれるであろうというマリアの確信の現われです。このマリアの姿からわかることは、わたしたちの日常のどんなに「些細な」ことでも、神の前に差し出すことができるということです。
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主の洗礼:希望と確信を持つために、イエスに倣い節目での祈りを大切に

この世で、理不尽な出来事がつづく中、それでも希望と確信をもって前に進んで行くためには、「祈る」ことが大事です。イエスがその模範を示しています。祈っているときに新しいことが始まるのです。それがわたしたちの目に見えなくても、確かなのです。
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主の公現:イエスは小さき者、異邦人と称される人々に自分を開示した

イエスのその後の生活をみればわかるように、イエスは小さき者、異邦人と称される人との付き合いを大事にしています。イエスの正体が、訪問者によって明らかにされたということができます。つまり、救いの仕事の第一歩が、その誕生から始まっていたのです。
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聖家族:神の意向は、常に現実の中で示されていることを認識しよう

イエスさまの「冷たい」言葉は、ご自分の使命に目覚めた羽ばたき、独り立ちの瞬間でした。「キレる」ことなく、五感を働かせてしっかりと少年イエスさまの飛びたちを見つめ、後に続きましょう。わたしたちの新たな年への旅立ちです。