四旬節第5主日

日曜日の聖書

四旬節第5主日:一粒の麦は、地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ。

四旬節第5主日(B年)の聖書=ヨハネ12・20~33 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
2018年/B年説教=神への道標

四旬節第5主日:「自分のいのちを憎む」とは?命の無限の価値に注目しよう

自分を中心とした心の動きを否定し、神中心の動きがある限り、周りへの影響力は増大します。他者にいかに踏み台にされたとしても、その人の命の尊さに、重さに傷はつきません。逆に、豊かな実をもたらします。
2017年/A年説教=神のふところ

四旬節第5主日:文化は違っても、その文化の中で人は神に向かっている

西洋の「罪の文化」と日本の「恥の文化」という表現があるようにその環境は違っていますが、生きている「人」は「人として」同じです。神に向かっているのです。神によって、人としての生き方、信仰に、今必要な中味を上乗せしていただきましょう。
日曜日の聖書

四旬節第5主日:わたしは復活、命である。信じる者は、死んでも生きる。

四旬節第5主日(A年)の福音=ヨハネ11・1~45 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
日曜日の聖書

四旬節第5主日:イエスは言われた。あなたを罪に定めない。行きなさい。

四旬節第5主日(C年)の聖書=ヨハネ8・1~11〔そのとき、〕 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
2015年/B年説教=イエスのこころ

四旬節第5主日:イエスさまが伝えようとされたご自分の死の意味とは?

それは、一度自分を否定すること、そこに新しい命へと変容していくイエスさま本来の「死」の意味が込められています。つまり、自分の姿(一粒のまま残る)を消していく中に、死んだままでは終わらない復活(豊かな実)の結びがあります。
2016年/C年説教=神のぬくもり

四旬節第5主日:イエスと出会って新たな一歩を踏み出す力を願いましょう

これを聞いた人は一人ひとりとその場からいなくなってしまいます。この女を裁く人は誰もいなくなりました。イエスさまは「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われます。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第5主日:マルタと同じように必死な叫びをあげつつ、その力と恵みを祈りましょう。

マルタの叫びに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。このことを信じるか」とマルタに迫ります。ここが、今日の福音の中心です。この言葉によって、イエスさまは、ご自分の人生のありようを宣言なさっているのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第5主日:イエスに「自分の殻から出て来なさい」と、招かれている

四旬節は回心、つまり、自己中心からの転回が求められ、新たな自己発見が叫ばれています。ラザロが出ていくために、墓の石が取りのけられました。同じように、わたしたちが出ていくために、邪魔になっているものはないでしょうか。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第5主日:人の原点は神に愛され、ゆるされ続けていることです

人は人を「罪人」であると判定できません。同じことをしでかす弱さを持ち合わせている人間であるとわかっていても、神はゆるし続けるのです。ゆるされ、愛され続けている「わたし」を実感したいですね。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第5主日:イエスの教えは自己愛の否定で新たな命の息吹を

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば豊かに実を結ぶ」。イエスさまがこの話で伝えたいことは何でしょうか。「自己愛の否定」自分が自分であり続ける限り、新たな命の息吹はありえないのです。