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四旬節第5主日:人はゆるされて成長し、他者に開く度量も備わっていく

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説教の2019年・年間テーマ=「召ばれています、いつも」

四旬節第5主日(C年)の聖書=ヨハネ8・1~11

2019年4月7日

「新元号」に多くの業界が即対応し始めた

この度日本政府は、「平成」に代わる新しい元号を「令和」と決定したと発表がありました。報道を見る限り、日本全土で注目の的となったのが、4月1日午前11時30分の発表でした。理容院で、温泉宿で、蕎麦屋で、大通りの大型スクリーンの前で、多くの方々がその足を止めて見入っていました。それに合わせて、関連業界も即動き出したという報道です。印鑑屋さん、印刷屋さん、お菓子屋さん等、即対応し始めています。

また、年度初めにもあたり、みな一人ひとりが、いろんな意味で新たな思いを込めて、動き出したのでしょうか。まさに日本人にとりましては、世紀の一大行事だったと言えるではないかと思います。

電話に苦手意識を持つ新入社員が増加傾向

各会社でも新しく採用された社員の入社式等、様々な形で挙行されたのではないかと思いますが、新入社員にとって難しい作業の一つに、かかってきた電話に出ることがあるといわれます。電話がかかってきたら出てくれといっても、出てくれないというのです。メールやSNSの普及で、電話に苦手意識を持つ若者が増えているとのこと。(讀賣新聞大阪本社、2019年4月2日朝刊)

「日本電信電話ユーザー協会」の吉川理恵子さんは、企業の社員教育担当者から、そのような若者について相談を受けることがあるそうです。吉川さんが教える基本的なマナーは、まず電話が鳴ったらすぐに出て、社名をはっきり名乗ること。電話対応というと「話すこと」ばかりに気を取られがちだが、より大切なのは「聞くこと」だといいます。互いの姿は見えないので、相手の言ったことを復唱するなどしてどこまで聞き取ったかを伝え、「ちゃんと聞いていますよ」という姿勢を示すのが一番のコツだと。

コミュニケ能力の開発は成長への近道

確かに、メールやSNS利用もコミュニケーションをとるためには、大事な方法の一つであることに変わりはありません。それでも、直に相手の方と相対することが、より密度の濃いコミュニケーションを構築することにつながり、信頼度も高まってきます。こうしたコミュニケーション能力を大切に伸ばすことは、「自己成長」への近道でもあります。苦手と思っている若い皆さんがいるとすれば、自分の能力と限界を素直に眺め、認めつつ、しっかりと多くの他者に心と耳を傾けてみましょう。

困難がきっかけで成長の道を辿ることも

一般的に言いまして、人間は何か困り果てたことが続きますと独りよがりに陥りがちです。さらにことが進んで行きますと、自暴自棄になっていきます。悪い意味で「度胸が据わる」とでもいうのでしょうか、自分でも信じられないことをしでかしたり、より自己中心的になっていきます。逆に、困ったことがきっかけで、それがよい方向に作用した時に「成長」への道のりをたどります。苦手意識もどこかにすっ飛んでいくものです。

今日の福音書に出てくる女性に何が起こったのでしょうか。姦通の現場でとらえられた女性が登場します。何が彼女をしてそうさせたのでしょうか。

四旬節第5主日:イエスは「あなたを罪に定めない。行きなさい」と言った
四旬節第5主日(C年)の聖書=ヨハネ8・1~11〔そのとき、〕 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。

律法学者たちはイエスに罠を仕掛けたが

律法学者とファリサイ派の人たちのやり方にいやらしさを感じます。現行犯逮捕の女性を「民衆の真ん中に立たせて」イエスを陥れようとする魂胆です。指導者である彼らにとって、イエスは宿敵なのです。これまで、イエスによって彼らは、民衆の面前で痛烈な非難を浴びてきたのです。したがって、いつの日か仕返しをしようとその機会を狙っていたのでした。その格好の機会が訪れたのです。

その場面が今日の福音書の話です。福音書の話は、あきらかにイエスを罠にかけようとする律法学者たちの悪意が読み取れます。そして、律法にしたがって裁きを行おうとします。それが「義」にかなったことであると信じて疑わなかった彼らの手法です。ところが、イエスは彼女を救おうとしておられます。この対立が「沈黙」という時間を作り、ことの重みを感じさせます。

イエスは本物の”神対応!”で女を救った

確かにモーセの律法によれば石殺しの刑にあたります。イエスの長い間の沈黙が、律法学者たちに「してやったり」と思わせたのではないでしょうか。ところが、イエスの答えは「あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」でした。

一人また一人と皆は立ち去っていきました。彼等は自らの今の能力と限界を素直に感じ取ったのでしょう。中でも強調したいことは、人には他人を裁く資格があるのかということです。自らも絶えずゆるされ続けてきた存在者です。律法学者たちも、そのことに気づかされたのではないでしょうか。悪だくみを考えつつ、自らの何たるかに気づかされ、最終的にはイエスに救われたのでした。

「神の義」は、神からの一方的なめぐみ

姦通の現行犯の女性も、イエスと律法学者の間にあって、沈黙を貫きました。この間に何を思ったのでしょう。命乞いはありません。この沈黙は何を意味するのでしょうか。おそらく、自らの至らなさに目覚めたのではないでしょうか。今、自分の目の前にいて、自分をゆるそうとしている方に、自らを「託す」心境にあったのでは、・・。そして、イエスの「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉をいただいたのです。ここに、律法の「義」ではなく、神の「義」があります。神の一方的な救いのめぐみです。

わたしたちは新たな環境の中で、新たな自分を構築していきます。自分のこだわりを、もっと広く、豊かにしていきましょう。そして、コミュニケーション能力を、神と、人との間に伸ばしましょう。

 

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