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三位一体:「知」だけでなく「心」の世界で分かりあい、交わり合いたい

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

三位一体(C年)の説教=ヨハネ16・12~15

2019年6月16日

「縦割り行政」の狭間で起こる奇妙な光景

「河川沿いの草刈り、府市協調できないの?」「縦割り行政の壁」「『モヒカン刈り』奇妙な光景」の新聞見出しを見て、いつまでたっても同じことの繰り返しが起きているのだなと、がっかりしたり、あきれ返ったり、また、そうすることが、逆に税金の無駄遣いではないかと思ったり、割り切れない気持ちになってしまいます。(京都新聞2019年6月6日朝刊)

その奇妙な光景の場所とは、・・。京都市西京区大原野上里の山鳥橋から上流を見ると、のり面はきれいに草が刈られているのに、道沿い約1メートルは草が伸びきったまま。わざわざ刈り残しているかのようです。

一級河川として小畑川を管理する府乙訓土木事務所に取材すると、毎年5月下旬から6月上旬にかけて付近の草刈りを実施しているとのことです。川沿いの道路は京都市道にあたり、土手上部の 1メートル分は市が管理しているとのこと。市の作業が1カ月遅れるためにこのような風景が生まれるといいます。

府と市が協調して解決できないものか

個人的な感覚としては、毎年のことでしょうから、府市協調してどうにかクリアできる道を探してはどうかと思いますが、双方に意地があるのでしょうかね。あるとすれば、くだらない意地だなと思ってしまいますが、・・。そのあたりのことを府に尋ねますと「1カ所でもそうすると、ここもそこも、となって際限がなくなる。厳しい財政状況の中、無理です」との答えが返ってきたとのこと。

「縦割り行政」とは聞きなれた言葉で、その意味することも少しは分かっているつもりですが、合点がいかないのが現実でしょう。また、「行政」とはそもそも何なんでしょうか。「三権分立」とはいうものの、はたして・・・。資料等を読んでみても、わたしの中では、ますますわからなくなってしまいそうです。

三位一体は、人間の知性では分からないが

きょうは三位一体の祝日です。三位一体の信仰、神秘は、神の奥深い内面に関することで、わたしたち人間の知性では、とてもじゃないけど分かり切ることのできないものです。それなのに、イエスはそれをわたしたちに開示してくれたのです。示さないではおれないほどに、神はわたしたちに関心を示し、相手にしてくださったのです。

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イエスの託身、イエスの十字架と復活のできごと等は、みな、三位一体の神秘をわたしたち人間に見せることが目的だったのでしょう。「人間の救い」という出来事は、人の知性の問題ではなく、神の恵みによって高められて初めて受け止めることができる神秘です。そうでない限り、この神秘は、いくら神が開示してくれたとしても、人の生き方に影響してくることはないと思います。つまり、「わたしは、あなたたちを友とよぶ」(ヨハネ15章15節)と言われるほどの近さを、神がわたしたちに求めてきても、「わたし」自身は知らぬ存ぜぬで過ごしてしまうということです。そう過ごしたとしても、心身に害を被っている感覚がないということです。

父と子と聖霊が人を真理に導いてくださる

また、頭(知性)ではわかっていても、体がついていかない、行動がともなっていないこと等ってよくある話です。日常で体験している方も多いのではないでしょうか。何も年を重ねたから、体が、行動がついていかないのではなく、安心感の欠落です。別の表現をすれば、人間存在としてのもろさ、弱さ、もっと言えるとすれば、一人ひとりの罪深さゆえでしょうか。

三位一体は、おん父とおん子は一体であり、同等であるということです。そして、おん父とおん子が、わたしたちにおくってくださるのが、聖霊です。「真理の霊であるそのかたが来られると、真理のあらゆる面であなたがたを導いてくださる」。この神の霊の働きを受けて、わたしたちは、神の命に与るのです。

このようにしてくださった方は、いうまでもなくイエスです。三位一体の内面を開示するだけでなく、その交わりの中にわたしたちを招こうとされるのです。これに参与できるようにしてくださったのです。イエス自身が十字架の血を流して取り戻してくれた新たな恵みです。神との関係が修復されたのです。イエスはおっしゃいます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14章23節)。これは、イエスの願いでもありました。つまり、わたしたち一人ひとりの力を高め、神の愛をわたしたち一人ひとりの心に注いでくれるのは聖霊です。

三位一体の交わりを深める信仰のセンスを

わたしたちは三位一体の交わりの中に招きいれられました。この交わりを深め、日常の煩雑さの中でも、絶えずこの交わりに戻っていくような「信仰センス」を大事にしていきたいですね。

人間の業には完璧はあり得ません。「縦割り行政」も「分かったつもり」ではなく、何らかのかかわりをもっていくことの中に、お互い(行政と市民)の高め合いがなされていくのでしょうか。そう願いたいものです。知の世界だけでなく、心の世界で分かり合い、交わり合いたいです。そこに「人間らしさ、信仰者らしさ」が滲みでてくるのでは、・・。

 

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