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年間第16主日:必要なことはただ一つ。それは相手を慮る「愛」の心

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第16主日(C年)の説教=ルカ10・38~42

2019年7月21日

日頃の積み重ねで培われる「おもてなし」

日本の伝統的な作法というと、年中行事や儀式における堅苦しくて窮屈な動作や、飲食の際のテーブルマナーのようなものを連想されるかもしれません。確かに、現代の作法やマナーは、日常の立ち居振る舞いよりも、しつけやたしなみに重点が置かれるようになってきました。しかし、日本の伝統作法・小笠原流礼法では、「立つ」「歩く」「座る」というふだん何気なく行っている姿勢や動作が、最も大切な作法の基本として位置づけられています。したがって、「おもてなし」は、何も特別なことを、その時にすることではなく、日頃からの積み重ねの中で培われていることが、ごく自然に発揮されることの中に成り立つものなんだなと感じます。どうなんでしょうか。

小笠原流礼法の基本は普段の姿勢や動作

小笠原流礼法を大事にしている方々にしてみますと、今の若者たちの姿勢が気になるようです。それというのも、首を前に出し、上体を前にかがめて歩いている人が多く、気になってしょうがないといいます。ひどくは、ゴリラが歩いているようだ、と酷評する人もいるほどです。

見た目も美しいとはいえませんが、それよりも、そのような人は「肩凝り」とか「腰痛」を持っているようなのです。それには、日常の生活スタイルの影響が出ているといえます。

デスクワークが増えた現代日本。長い間椅子に座ってパソコンに向かっているうちに、いつしか上体を前にかがめてしまいます。前かがみの姿勢は腰や肩によけいな力がかかり、さらに、胸をすぼめるような姿勢から、内臓が圧迫されて呼吸が浅くなってしまいます。呼吸が浅ければ、当然のごとく酸素を十分に体内に取り込むことができなくなります。体内に酸素が足りなくなれば、体が思うように動きませんし、疲れやすくなります。そして、体の一部に負荷がかかりすぎてしまうのです。つまり、肩こりや腰痛の原因となってしまいます。

体が本来持っている機能通りに効率よく体を動かせば、全身バランスよく無理なく体力を維持できるのだそうです。無駄のない、バランスがとれた姿勢や動きは、他人から見ても美しく映ります。そして、「実用的」「効率的」さらに「美しい」という、三拍子そろっているのが小笠原流の作法の特徴だということです。(「日本の作法」小笠原清忠著参照)

国民性、家風、人となりも日常の積み重ね

どこの国の人の「国民性」も、同じようにしてその国の自然環境、生活習慣等により積み上げられていくのでしょう。 歴史の経過とともにできあがってきた「作法」は、面倒くささもありながら、その国の「人となり」を作り上げてきましたし、これからもそうだろうと思います。こうして、その国の固有の「おもてなし」となって生活文化と称されるようになります。「さすが、日本ね」といわれると、嬉しく感じるのではないでしょうか。また、それは各家庭によっても特徴が出てきます。その家庭独特の味が出ていて、それが「家風」として受け継がれていくのでしょう。そして、お互いの人間関係を築く中で、それぞれが学び取って、成長の糧にしていきます。

年間第16主日:必要なことはただ一つだけだ。マリアは良い方を選んだ。
年間第16主日(C年)の福音=ルカ10・38~42 〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

この「おもてなし」の原点が、今日のイエスのメッセージの中にあるように思われます。「必要なことはただ一つだけである」というイエスの言葉をどのように受け止めればいいのでしょう。

イエスが言う「必要なことはただ一つ」とは

マルタとマリアの姉妹の、イエスのもてなし方がどうやら話題になっているようです。イエスと弟子たちをもてなすために「多くのことに思い煩い、気を使っている」マルタ。逆に、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」マリア。この話は、しばしば活動生活と観想生活という図式の中で受け止められてきた経緯があります。こうした二元論的な考え方は、本来のキリスト教にはない考え方です。

その上、活動生活よりも観想生活が、天国に近い生活として評価されたものでした。決してそういうことはありません。肉体の価値や地上の価値を軽視する考え方は、イエスのメッセージにはありません。このことは、先週の「サマリア人のたとえ話」を見てもよくわかります。ユダヤ人から軽蔑され、社会の闇の部分に生きていたサマリア人。イエスはその人を褒めたたえます。彼には「愛」があったからです。愛があるところに神はおいでになります。それは、誰が見ても、その人に感動し、納得できるものに繋がっていくのです。すべての評価の基準は、「愛」があって「神」がそこにおられるということです。逆に、神がともにおられるからこそ、わたしたちは愛ある言動をとることができます。しかし、現実には、「自我」がいつも邪魔しようと待ち構えています。この闘いに勝利して、心こもった「おもてなし」に近づいていくことができます。

相手を思いやる温かさが欠けているのでは!

「必要なことはただ一つ」とおっしゃるのは、マリアがどうしてそのような態度に出たのか、マルタに、そのことを思いやってあげる温かさ「愛」が欠けていたと、イエスは言われたのでしょう。つまり、イエスにとっても、マリアにとっても、一番いい形の「おもてなし」となったのでした。また、日頃から、マリアに接していたマルタにとって、マリアがとった態度は想定できたことではなかったでしょうか、とイエスは言いたいのでしょうか。

日常、同じ屋根の下で生活し、同じ職場で仕事をし、地域社会で奉仕している人々の心のうちを慮ってあげること(愛の心)は、わたしたちすべての者にとって、大事なことではないでしょうか。普段から、何気なく生きている中で、できていきます。

 

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