年間第16主日(C年)の説教=ルカ10・38~42
2022年7月17日
他者にしてあげること vs してもらうこと
いきなりテレビドラマの話で申し訳ありません。あるドラマの中で、母親が息子に尋ねます。「自分が人に何かをしてあげることと、自分が人に何かをしてもらうこととどちらがいい人間になれると思うか」というのです。息子が答えに窮したのか、黙っていると、母親が言います。「お母さんはしてあげる方だと思っている」と。
なぜそのようなことを母親がいったのか、その意味がわからなかった息子は、先輩に相談します。すると先輩は話してくれます。「それは、今は亡き君の父親に対するお母さんの愛情なんじゃないか」と。要するに、お母さんとしては、お父さんの仕事についてのよき理解者であり、協力者であり、誇りを持っていたんだという思いを息子に告げたかったのではないかということでした。また、家庭を顧みない父親、という息子の思い込みに対して、「そうじゃないんだよ」というメッセージだったのじゃないかということです。さらに、息子は父親と同じ職業、刑事になっていることから、自分の仕事に自信をもって邁進するようにとの励ましのメッセージでもあったのではないかと、先輩に諭されます。
そして、ドラマの最後は、父親が犯人に盗まれた拳銃を取り戻すことが、息子が刑事になった動機であり、目的であったことが明らかになって、物語は締めくくられています。
心の中を素直に表に出せる人、出せない人
人が毎日の生活の中でお互いに関わる時、言葉はコミュニケーションを持つために大事な手段となっています。でも、伝えたいことをすべて言い尽くしているのかと言えば、そうではないです。
人は心に秘めた思いを表に素直に出す人と、そうでない、というよりも、できない人がいます。現に、いろんなタイプの人がいます。いるからこそ、お互いが人としての成熟、成長に大きな力となっているのです。だからこそ、日々が楽しいし、生きがいのある毎日を送ることができています。だからこそ、人のために頑張ってみようかという気になって、より豊かになっていく自分を発見し、それに気づく時が来ます。そして、あの時自分に言わんとしていた親の、先輩の、同僚の言葉の意味がわかってくるものです。
したがって、人としての営みを続けていく中で、人との出会いは相手にもよりますが、楽しいものです。今日の福音書では、マルタとマリアがイエスと会い、イエスを客としてもてなす場面が読まれます。
マルタとマリアの接待の違いを読み解くと
イエスがある村に入ると、マルタという女性がイエスを家に迎え入れます。当時のユダヤ人の社会では、女性が男性を家に迎え入れてもてなしをすることは、普通はあり得ないことでした。ここでも、イエスは当時の慣習に異論を唱えます。つまり、イエスは男女の垣根を崩し、男性女性の間に差別のないことを宣言されたのです。よきサマリア人の話では、ユダヤ人と異邦人の垣根をなくしたのでした。
そして、マルタにはマリアという姉妹がいました。この二人のイエスの接待のあり方があまりにも違い過ぎます。マリアは主の足もとに座り、イエスの言葉に耳を傾けます。マルタといえば、せわしく動き回り、飲食の接待をしてくれます。
この姿を見てわたしたちが日本人としてどう感じるでしょうか。どちらが客を「接待をしている」というふうに映りますか。客であるイエスにとってどちらの接待のあり方が喜ばれるのでしょうか。接待である限り、相手の方に喜ばれるのがいいに決まっています。日本人としての「わたし」はどう感じるのでしょうか。
もしかして就職試験の面接にも役立つ?
新聞を読んでいますと、「面接試験の心構え学ぶ」という見出しが目に入りました。何かといえば、就職希望の高校生に対しての就活セミナーでした。鹿児島市が企画したもので、高校3年生に面接試験のポイント指導するステップアップセミナーでした。(南日本新聞2022年7月13日朝刊)
このセミナーは、9月に解禁される就職試験を前に、リハーサルで緊張をほぐし本番で力を発揮してもらおうと2004年に始められたということです。今年は地元定着を推進するために、市内に本社。本店を置く金融や観光など4企業が協力してくれました。面接試験の練習では、ビジネスマナーの専門家が、好感を持たれる受け答えやあいさつの仕方を指導し、自然な立ち振る舞いと笑顔をポイントに挙げていました。セミナーは4日間あり、8校から500人が受講することになっているようです。
このようなニュースを見ますと、日本のおもてなしの心の大切さが伝わってきます。たとえ仕事、商売のためにとはいっても、いつも人を相手にする限りは、相手が日本人であろうとなかろうと、大人であろうと子どもであろうと、おなじ「人」です。相手のことを大事にするという心構え、相手を優先する心、ここに日本文化のよさがあるような気がします。
最高のもてなしは相手が喜ぶことを的確に
つまり、イエスをもてなす心も、同じことが言えないでしょうか。イエスが一番喜ぶであろう「おもてなし」は何でしょうか。マリアの「おもてなし」は主(イエス)の足もとに座ることでした。その実、イエスはそのことを喜んだのでした。
そして、マルタにイエスが言われたのは、マリアを咎めるのではなく、マリアの心を思いやる温かさに欠けているよ、ということでした。つまり、「わたしのことは心配しないで、マリア、あなたが待ち求めていた主の言葉に心を傾けなさい。主へのもてなしは自分一人でできるから」と言ってあげることが、実は、マルタのイエスへの最高のおもてなしだったのです。
わたしたちのもてなしも、粗相がないようにと配慮しても、完璧はないかもしれません。それでも、肝心な点はぬかしたくないですね。相手が大事な人であればそれだけに、・・。
コメント