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年間第19主日:「目を覚まして待つ」信仰者になっているか自問自答を

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年間第19主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第19主日(C年)の説教=ルカ12・32~48

2022年8月7日

人間、年齢を重ねると、「昔」のことはよく覚えていて思い出すのに、どうしてなのかは分かりませんが、「今」のことを忘れるのだと、以前からよく言われています。

小学生時代、寝れないほど楽しかったこと

自分を振り返ってみますと、必ずしもそうでもないなと思いますが、一つ言えるのは、若い頃は覚えようとしなくても覚えていたのに、年を重ねると、それがなくなっているのかなと感じることです。だから、未だにお年寄りの特徴みたいなものとして、語り継がれていくのかなと納得しています。でも、そのこと自体が年を取った証拠なんでしょうけど、・・ね。

中でも、楽しかったこと、そして、辛かったことの両極端の出来事をかなり鮮明に思い出すことがあります。そのうち、「楽しいこと」は、嬉しさのあまり休めない時があり、逆に、よく休める時があったことを思い出します。

休めなかったこととは、クリスマスの深夜、24日です。まだわたしは小学校3年生くらいで、深夜のミサが11時30分からでした。ミサの間は侍者をしながら寝ているのに、終わった途端に、ばっちりと目が覚めます。お楽しみ会が待っているのです。この時は素敵なプレゼントをいただけたし、ご馳走も振る舞われたのです。老若男女、楽しいひと時でした。わたしが一番小さかったので、特に「大事に」(?)されたのかな、動きまわらなくてもおいしいものが目の前に並べられました。興奮のあまり寝る時間になっても寝れないんですね。すでに夜が明けるかなという時間です。

逆に、遠足の前の日などはぐっすりと眠れました。楽しみが次の日だからでしょうか。楽しみというのは、お弁当に「卵焼き」一切れですが回るんです。普段は食べられないものでした。これまた、小学校の頃です。その上、バナナ1本もついてくるんですよ。当時のわたしの家族にとっては贅沢な食べ物でした。母が奮発してくれたんですね。あとで大きくなってから思ったことです。あの時は、母がわたしに肩身の狭い思いをさせないために、精一杯の心配りをしてくれたのかな、と。同級生には、金銭的にはゆとりのある家族が多かったのです。

百歳を超えて、地元紙に投稿を始めた女性

また、年を重ねた人にも、その人相応のパワーと喜びがあります。「ひろば欄」への投稿を始めて試みた102歳と(2022年6月15日投稿)103歳(2022年6月24日投稿)の女性の生き方に感動を覚えた後輩たち、周囲の方々が、「人生の先輩に勇気をもらった」と大きな反響が寄せられているといいます。その方とは牛垣伶子さん(102歳)と米澤ハツコさん(103歳)です。(南日本新聞2022年7月31日朝刊)

お二人に共通することは「ありがたい」という感謝の心です。そして、いつも他者が意識されています。この人のおかげ、近所の方々の励ましをありがたいと思える日々があることです。牛垣さんは息子さんと自宅で暮らし、米澤さんはデイサービス施設を利用しながら、60代の末娘さんと暮らしつつ感謝の日々です。

やはり人間は、「生きていること」が大事なんですね。そのこと自体で、大きな励みになり、誰かの役に立っているのです。その年齢、境遇にあった形で、内容で社会貢献しています。人々に奉仕しています。本人の中では意識されていなくても、・・。でも、意識されるとさらなるエネルギーがわいてきます。牛垣さんに「見習いたい」などの感想が届くと「うれしい。返事が書けず申し訳ない」と言いつつ、次回の投稿を考えているといいます。米澤さんは、「昔話を聞きたい」と同施設の利用者が集まってくるのだそうです。新たに力が湧きおこってくるんですね。このようにして世代が引き継がれていくのではないんでしょうか、人間がいる限り、・・。

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「らしさ」という言葉があります。女性らしさ、男性らしさ、子どもらしさ等、広く使われる表現です。すべて、その立場にあるものとしての姿が浮かび上がってきます。いわゆるその品性も備わっているからでしょう。

キリスト者の特徴 ⇒「目を覚まして待つ」

キリストを信じる者にも、その特徴と言いますか、「らしさ」があるといいます。それが今日の福音書に出てきています。それは「目を覚まして待つ」ということです。どうしてそうできるのかも示しています。それは「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(37節)からです。これは、キリストが再び来るときに実現する神の国での食卓のことです。救いの宴です。

現実の世では、主人がお世話して給仕までしてくれるなんてことは到底考えられません。どう考えてもせいぜい「ごくろうさま」と言って、一日の労をねぎらうことで精一杯なのではないでしょうか。ではどうしてイエスは一般常識では大げさともいえるたとえ話をしたのでしょう。

それは、イエスの弟子たちのグループは「小さな群れよ、恐れるな。」とおっしゃっているとおりだからです。つまり、あまりにも小さな集まりで、人民への何の影響力もない、出来立てほやほやの集団だったのです。数としても能力にしても、その当時の力あるグループ・律法学士、ファリザイ派、議会と結びついた長老たちには遠く及びませんでした。キリストの再来は未だに遠い状況だったのです。

「目を覚まして待つ」のは何故?その根拠

だから、人間としての支えも望みも失われ、様々な悩みに遭遇してしまう状況に追いやられます。今は闇の中にいるからです。しかし、どんなことになっても彼らに心を配る「父」がいることを忘れないようにしなさい、と励まされるのです。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」からです。このようにイエスは神が保証してくださることを示して弟子たちを励まし、その歩みを前に進めるように彼らをかり立てました。だから「目を覚まして待つ」ことができるのです。

そして、大きく広く発展していく教会をつくっていったのでした。それを継いでいる今のわたしたちはどうでしょうか。「目を覚まして待つ」信仰者になっていますか、と自問自答してみましょうか。

一人ひとりの置かれた年齢と環境を生かしながら、また、「目を覚まして」忍耐強く待ちながら、新たな力をいただいて神の影響を、光を人々に与えることができているでしょうか。そうでありますように。アーメン

 

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