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年間第20主日:「失敗」の連続であるとしても、挑戦はどこまでも続く

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年間第20主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第20主日(C年)の説教=ルカ12・49~53

2022年8月14日

上司、教師の指導という名の罰則は日本独特か

先日ある方と話をしておりましたら、こう言われました。「我が会社は、失敗が許されないんだよね」と。その中身が何であれ、失敗が許されないとしても、「しでかしたことについてはどうしようもないじゃありませんか」と申し上げたんですが、社員当人はお叱りの「罰則」が待ち構えているのでしょうか。

わが国だけでしょうか、上司にとって、何か気に入らぬことを社員がすると、また、教師が気にくわないことを生徒がすると、すぐに「罰則」が待っています。上司は、教師はそれを「罰」ではなく「指導」と称します。でも、一生懸命やって失敗したのであれば、その努力は評価してあげてもいいのではないかと思うんですが、少なくとも教育界においては、と思うことがあります。こういうと「甘い」と言われるんですよね。すべてはどこの世界でも「結果」なんですね。

ところで、これとは違うような気もしますが、ある出来事がありました。大阪府泉大津市の中学校で、修学旅行中に生徒2人を暑いバスの中で長時間待機させたとして、保護者が校長らに重い処分を科すよう求めました。「私は体罰教師だとはっきりと思っています。(娘は)“バスの中でこのまま死ぬんやと思った”と言っていました」

”指導は体罰だ”と、教師の処分を求める声も

保護者によりますと、泉大津市の市立中学校に通う3年の女子生徒と男子生徒は今年6月、修学旅行で訪れた岐阜県高山市で2時間半にわたりバスの中で待機させられたということです。女子生徒がこの日の朝、宿泊先の部屋を抜け出して男子生徒の部屋の中にいたため、他の生徒らが修学旅行の課外活動中、教諭が2人にバスに残るよう指示したということです。

この日の高山市の最高気温は35.7℃でしたが、バスのエンジンは切られ、冷房もかけられていませんでした。女子生徒は帰宅後、食欲がないなど熱中症を疑わせる症状があったということです。

一方で学校は配慮が足りなかったと謝罪しましたが、生徒の体調管理には気を遣っていたと話しています。泉大津市の市立中学校の教頭は「その待機場所についてはもちろん教員もついておりますし、生徒には外の方が風もあるし涼しいよと声かけした一方、生徒は「いらん、バスにおる」と。校長は今年7月に市教委から厳重注意処分を受けましたが、生徒の保護者はさらに重い処分を求めています。(MSNJapanニュース)

この「バス内待機」は、一種の「体罰」の類に入るような気もしますが、この処置が「指導」しました、ということになるのでしょうか。学校関係内で、よく「指導する」とか言いますけど、そもそも「指導する」ってことはどのようなことを言うのでしょうか、分からなくなる時があります。

人の失敗は日常的。反復的な再挑戦で成長する

ところで日常、わたしたちが元気に楽しく、平和裏に生きよとしても失敗はあります。でも失敗しようとして失敗する人はいないでしょう。結果として、「失敗だったな」ということはあります。これが普通です。そして、次回はこうしたらいいんだな、と一つ上の段階で、次なる挑戦ができる知恵と工夫も生まれてきます。こうして技術者ならば、熟練技師になって行きます。そして人間としても円熟味を増していきます。だんだんと他者から、広く周りの人々から信頼され、相談相手になっていくことができるような存在に成長していきます。

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イエスの弟子たちもそうでした。それこそ、ただ漁を取ることを専門とする職に就いていたのですが、わたしたちと同じような普通の人たちだったのです。それが、イエスとともに暮らし、たくさんの教えを受け、数々のしるしや出来事を体験するうちに、イエスの教えを、ついにはイエスに代わって救いの神秘を説く宣教師に変えられていきました。

しかし、イエスについてきた弟子たちは12使徒だけではなかったのでしょうが、その多くは脱落していったのでした。その状況を今日の福音書は語っています。

イエスのことばは「嘆き節」にも聞こえるが…

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。

これは長いあいだ宣教活動の旅を続けてきたイエスの、いわば、嘆き節ということができるでしょうか。イエスがこれまでに宣教活動してきた人々に対して、その活動自体は失敗だったといっているような気もします。その宣教の旅は、ガリラヤに始まり、カファルナウム、コロサインの村々を回り、ついには首都エルサレムまで足を延ばされたのです。行く先々でたくさんの民衆が待ち受け歓迎してくれました。そして、多くの人々が病のいやしと生活苦からの解放と慰め、励ましの言葉と力を受けようとしていたのです。

真理に対する人々の無理解がイエスの苦悩の元

しかしイエスは、こうした皆の受け入れ方がいかに浅く、軽いものであったかを見抜いておられました。確かに、皆の中にはイエスの人柄に魅かれ、自分の人生までもイエスにかけようとした人々もいたのです。そして、行動をイエスと共にした人もいたのです。ところが、彼らのイエスに対する理解、受け入れ方はイエスが望んでいるものとはかけ離れていたのです。つまり、彼らはいつも地上的で身勝手だし、あまりにも人間的過ぎる俗っぽいものだったからです。つまりイエスへの誤解でした。その結果が、ゆくゆくは十字架刑というかたちで顕になったのでした。

宣教の旅の結果が芳しくなかったことを受けて、イエスは苦しまれます。イエスが説いた真理がゆがめられ、無視されているところに、真のしあわせ、平和はあり得ないからです。どんなに繁栄しているように見えても、表面だけで、実際は人間性がゆがめられ、踏みにじられているといえます。

現実の社会はどうでしょう。今だってそれは続いているといえないでしょうか。これが、「宣教活動」を必要としている所以でもあるでしょう。だから、教会は宣教し続けるのです。イエスが世の終わりまで共にいてくださるから。

「失敗」は、やるべきことを誰がやったとしても、人である限りなくなることはないでしょう。大事なことは、やったことを振り返り、そして、次回へと諦めないことではないでしょうか。宣教をさらに後世に引き継ぐために、・・。

 

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