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年間第20主日

2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

年間第20主日:神との出会いは、闇の中でともる目立たない明かり

母親は恵みにあずかるには値しないことも知りつつ叫ぶのでした。ひたすらあわれみに向かって叫ぶのです。ここにイエスは真の信仰を見出したのです。闇の中に、絶望感の中にも神との出会いはあるのです。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第20主日:「失敗」の連続であるとしても、挑戦はどこまでも続く

「失敗」は、やるべきことを誰がやったとしても、人である限りなくなることはないでしょう。大事なことは、やったことを振り返り、そして、次回へと諦めないことではないでしょうか。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

年間第20主日:日々の苦しみの中で、「我が信仰」を見出せますか?

わたしたちも、カナンの女と同じような苦しみの真っ只中に置かれることがしばしばあります。誘惑なのか試練なのか、わかりません。その時でてくる思い、言葉は何でしょうか。確たる神への信頼のもとに出てくる「叫び」でしょうか。
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

年間第20主日:わたしたちは平和の伝達者。日々の伝達訓練機会を大事に

「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。…むしろ分裂だ」とおっしゃいます。しかし、イエスは「わたしはあなた方に平和を残す。わたしの平和をあなた方に与える」(ヨハネ14章27節)と約束なさっています。それでは一体どちらを与えに来られたのでしょうか。それは、イエスの生き方を受け入れるか拒むのかにかかっているということです。
2018年/B年説教=神への道標

年間第20主日:「食べる・飲む」それは互いに一つであることのしるし

「イエスの肉を食べる、血を飲む」という表現の中に込められていることは、一人ひとりの生き方がイエスの心に合わさって一つになることが求められている!ということ。イエスの十字架上での死は、わたしたちのためであることをしっかりと自覚しましょう。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第20主日:苦悩の中で出会った神の恵みに気付いていますか?

究極に立たされた時の「温かいまなざし、援助の手」は、人間回復に大きな力です。戦争孤児となり、生きるどん底を体験した方、絶望の淵に追いやられていたカナンの女性。苦悩の中で見出した一条の光、それは恵みとの出会い、神との出会いであったのです。信仰を見出すのは「どんな時」でしょう。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第20主日:わたしたちのご聖体に対するイメージはどんなもの?

「イエスの肉を食べる」「血を飲む」という表現の中には、わたしたちの救いのために十字架上で殺されるという神秘が前提されています。ご聖体を拝領する時に、この神秘を受けとめ、「わたし」をそれに重ねていく決意が求められてきます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第20主日:イエスさまの厳しいことば「嘆き節」をやめてもらうには

民衆のイエスさま理解は、どこか地上的過ぎて恣意的なにおいがするものでした。イエスさまを誤解してしまったのです。その結果、即物的な救い、安寧を期待してしまい、誰ひとりイエスさまとともに燃えあがる人が出なかったのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第20主日:評価を気にせず、粛々と自分が歩むべき道を進む

わたしたちは誤解を解こうともがきますが、イエスさまは粛々とご自分が歩むべき道のりを進みます。ここに、イエスさまの卓越さと優しさがあります。わたしたちには、いつも、事が終わってから気付くのです。イエスさまは人の評価を気にしません。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第20主日:「一つになる」ためには自分から合わせる姿勢が必要

「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない」(54節)聖体拝領には、イエスさまの十字架、あがないをよく知り、しっかりと受けとめることが求められます。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第20主日:平和に対しては「ないものねだり」はしないのでしょうか

育ちの環境の違い、民族の違い等、「違い」が、平和実現の邪魔にはなりえないということでしょうか。むしろ「違い」は豊かさへの出発点のような気がしますが、いかがでしょうか。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第20主日:人に対する嘆きはグチだが、神につぶやけば祈り

イエスさまが期待する信仰者は、純粋に救いに飢えている人です。イエスさまは、叫び続ける母親の中に真実の信仰を見いだし「『婦人よ、あなたの信仰はりっぱだ。あなたの望みどおりになれ』。娘はそのときから治った」と。
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