年間第20主日

日曜日の聖書

年間第20主日:わたしは、天から降って来た生きたパンである。

年間第20主日(B年)の聖書=ヨハネ6・51~58 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
2018年/B年説教=神への道標

年間第20主日:「食べる・飲む」それは互いに一つであることのしるし

「イエスの肉を食べる、血を飲む」という表現の中に込められていることは、一人ひとりの生き方がイエスの心に合わさって一つになることが求められている!ということ。イエスの十字架上での死は、わたしたちのためであることをしっかりと自覚しましょう。
日曜日の聖書

年間第20主日:異邦人の女は「小犬も食卓から落ちるパン屑はいただきます」と訴えた

年間第20主日(A年)の福音=マタイ15・21~28〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第20主日:苦悩の中で出会った神の恵みに気付いていますか?

究極に立たされた時の「温かいまなざし、援助の手」は、人間回復に大きな力です。戦争孤児となり、生きるどん底を体験した方、絶望の淵に追いやられていたカナンの女性。苦悩の中で見出した一条の光、それは恵みとの出会い、神との出会いであったのです。信仰を見出すのは「どんな時」でしょう。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第20主日:わたしたちのご聖体に対するイメージはどんなもの?

「イエスの肉を食べる」「血を飲む」という表現の中には、わたしたちの救いのために十字架上で殺されるという神秘が前提されています。ご聖体を拝領する時に、この神秘を受けとめ、「わたし」をそれに重ねていく決意が求められてきます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第20主日:イエスさまの厳しいことば「嘆き節」をやめてもらうには

民衆のイエスさま理解は、どこか地上的過ぎて恣意的なにおいがするものでした。イエスさまを誤解してしまったのです。その結果、即物的な救い、安寧を期待してしまい、誰ひとりイエスさまとともに燃えあがる人が出なかったのです。
日曜日の聖書

年間第20主日:わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか

年間第20主日(C年)の福音=ルカ12.49~53 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第20主日:評価を気にせず、粛々と自分が歩むべき道を進む

わたしたちは誤解を解こうともがきますが、イエスさまは粛々とご自分が歩むべき道のりを進みます。ここに、イエスさまの卓越さと優しさがあります。わたしたちには、いつも、事が終わってから気付くのです。イエスさまは人の評価を気にしません。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第20主日:「一つになる」ためには自分から合わせる姿勢が必要

「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない」(54節)聖体拝領には、イエスさまの十字架、あがないをよく知り、しっかりと受けとめることが求められます。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第20主日:平和に対しては「ないものねだり」はしないのでしょうか

育ちの環境の違い、民族の違い等、「違い」が、平和実現の邪魔にはなりえないということでしょうか。むしろ「違い」は豊かさへの出発点のような気がしますが、いかがでしょうか。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第20主日:人に対する嘆きはグチだが、神につぶやけば祈り

イエスさまが期待する信仰者は、純粋に救いに飢えている人です。イエスさまは、叫び続ける母親の中に真実の信仰を見いだし「『婦人よ、あなたの信仰はりっぱだ。あなたの望みどおりになれ』。娘はそのときから治った」と。