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年間第20主日:日々の苦しみの中で、「我が信仰」を見出せますか?

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年間第20主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第20主日(A年)の説教=マタイ15・21~28

2020年8月16日

命の大切さは障害の有無とは関係ない!はず

相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件から7月26日で4年を迎えました。そのことを受けて、鹿児島市川上町にある社会福祉法人「麦の芽福祉会」は7月31日、障害者のいのちの尊厳を考える会を開きました。(南日本新聞2020年8月5日朝刊)そして、動画投稿サイト「ユーチューブ」でその模様を同時配信し、障害者や福祉従事者らがリレートーク形式で命の尊さを訴えました。今回のテーマは「障害があってもなくてもいのちの大事さは変わらないはず・・・」でした。

同福祉会の障害者施設を利用する前田みつるさん(53歳)は、事件の犠牲者に未成年者がいたことを挙げ「成人式を迎えられなかったことや、親御さんの気持ちを思うと涙が止まらない。互いを分かり合える社会になるといい」と涙ながらに訴えたといいます。

障害者の家族や施設職員からは「事件の犯人を称賛する声に傷ついた」「草の根的に事件を伝えていくことが必要」などの意見が出されていました。

「命の重さは平等」とはいえ、現実社会では…

「命の重さは平等」ということは、だれもが知り、認め、そして理解していることです。その証拠に、各地にそのための公立、私立の施設が、援助の手が差し伸べられています。わたしたちの間に「助け合い、支え合いの心」が豊かになってきつつあるのではないかと思っていますが、・・。でも、現実はそれを否定するかのような事件事故が起こっています。

人がすることに「完璧」はあり得ないことはよくわかっています。しかし、最初から、人の「満点の助け合いの心」で、この「助け合い」が始まったのでしょうか。幾多の成功と失敗とを繰り返しながら、徐々に積み上げられてきた「心の豊かさ、温かさ」の実りとして、「他者」に向けられた「わたし」を、一人ひとりが作り上げてきたのではないでしょうか。だから、完璧はあり得ないのです。いつも、絶えず動いているのですから。~ingなのです。それは、いつも成長を遂げていっているということができます。

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「イエスは何も答えなかった」意図を問いたい

ところが、今日の福音書のイエスの言動には「人への」温かさが感じられません。日々、神の愛のやさしさ、温かさを説き、行動で示してきたイエスを思うとき、日ごろのイエスとのあまりの違いに、弟子たちも驚いたのではないでしょうか。イエスの言動は理解に苦しむのです。「何もお答えにならなかった」イエスのこの沈黙は、何を語っているのでしょうか。

「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」イエスにとって、カナンの女の頼み事に、耳を貸すことなどゆるされていないとでもいうのでしょうか。そのイスラエルの家の羊たちに、その実、イエスはうんざりした気持ちを抱いて、ティルスとシドン地方に、新たな出会いを求めて出てきたのでした。この地は、異邦人の世界です。つまり、当時のイスラエルの人々の見方に立てば、救いが約束されていない世界であり、人々です。そこで、このカナンの女に出会ったのでした。

我が子のことで悩まない親はいないでしょう。その命を賭して我が子のために心配し、行動し、なりふり構わないのです。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と、イエスに「小犬」呼ばわりされても、母親は最後の頼みの綱と思って嘆願します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と。

これまで、古い掟や習慣、形式にばかりこだわるイスラエルの人々に失望していたイエスは、この母親の中に、イスラエルの人々の中から消え去った真実の信仰を見出されたのでした。このカナンの女は、救いに真に飢えていて、形式にこだわらない、苦しみの中にあって信仰の叫びをあげているのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と。この母親の願いに沈黙し、冷酷さを感じさせるイエスの態度は、形式的な、表面だけの信仰に固執してきたイスラエルの民への、イエスの「がっかり感」の表れだったのでしょう。安易な出会いだけは避けたかったのでしょう。

イエスの沈黙は私たちにも何かを訴えている

さらに、母親が苦悩の中で、自らの信仰をしっかりと見つめることができるようにという意図もあったのかもしれないという気もします。意図的に、母親を苦しみに追い落としてしまうのです。「試練」でしょうか。そして、母親は明確な信仰の自覚とともに、「主よ、わたしを助けてください」と信仰告白をするのです。自分はイスラエル人ではなく、恵みに値しないものであることをも自覚したうえで、・・。

わたしたちも、日常、同じような苦しみの真っ只中に置かれることがしばしばあります。誘惑なのか試練なのか、わかりません。その時でてくる思い、言葉は何でしょうか。確たる神への信頼のもとに出てくる「叫び」でしょうか。何度も失敗を繰り返しながらも、神の導く力を、手を感じていきましょう。信仰者にふさわしい生き方(?)をしていないと自覚しつつ、・・。

わたしたちの「信仰」は止まってはいないのです。動いているのです。絶えず成長しています。高めあっていける仲間を求めています。だから、支え合っていけます。大事にされたい。だから、人をも大事にするのです。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ福音書7章12節)

 

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