カトリック教会の日曜日のミサで朗読される三番目の聖書(福音書)を毎週木曜日の夕方更新。2017年からは第1朗読、第2朗読の掲載も始めました。ページでは主日(日曜日のこと)ごとにそれぞれの福音書に基づいた説教へのリンクもあります。また3年周期のA年、B年、C年を簡単に閲覧できるように工夫しています。
年間第24主日:試練は「神の思い」と「人の思い」の違いの大きさから
イエスがペトロに「サタン、引き下がれ」と命じたのは、イエスの前に出て歩むのではなく、「わたしの後に退け」ということでした。「神の思い」と「人の思い」とがかけ離れているので、わたしたちには苦しみがあり、それがまた、大きいのでしょうね。
年間第23主日:イエスの奇跡の恵みは、例外なく、わたしたち一人ひとりに
イエスの奇跡は、この世にあるすべての人、そして、闇の中にあるわたしたち一人ひとりにとって、この世界に喜び輝きを与えるメシアとしてのイエスの姿が込められていると言えるでしょう。
年間第21主日:「つぶやき」が嘆き節ではなく、さわやかな祈りになるように!
自らの辛さ、苦しみ、やるせなさがどうしても気になり、周りに、ましてや神に、イエスに、目と心を向けることがおろそかになってはいないでしょうか。むしろ、そんな時こそ神にすべてを向ける、もってこいの「時」なのではないかと、・・。
年間第20主日:「信じる」ことは、イエスと「一つになる」こと。それは・・・
聖体を「信仰すること」は、イエスとの思いを共有することと言えるでしょう。いわゆる「一つになること」です。天の国で父と子が一つであるように、わたしたち共同体が一つになるようにしてください、とイエスは祈っています。
年間第19主日:信仰している「すごさ」に目覚める、「教わる、学ぶ」の心
わたしたちが日常の中で、通常におこなわれている「学び」「教わる」時の心を、意識的に思い起こすことができれば、より身近なところで、毎日、「信じている」恵みのすごさに目覚めることができるのではないでしょうか。
年間第18主日:なぜか頑固な「きょう」のイエス。本当の姿は?
イエスの言葉は、話しながらその中身を濃くしていくのに、群衆は探し求め始めた時からの思いからどうしても離れられないのです。それゆえに、ますますイエスと群衆の隔たりは広がっていきます。
年間第17主日:行き詰まった時は神の思いに戻り、自分の歩む道を確認したい
言葉とかサインとかは、他者が理解するための助けにはなるでしょうが、時には、誤解を生じることもあり得ます。その時、イエスはどうしたでしょう。「人里離れたところ」に退き、静かにおん父の思いを確認したのでした。
年間第16主日:日常は大事なことに繋がっている。「休む」ことは無駄ではない
「人里離れたところで休みなさい」というイエスの指示は何を意味するのでしょうか。人の知恵ではなく、神の知恵、神の愛を人々に伝え続けるために、祈りが必要、大切にされなければいけないということです。
年間第15主日:イエスに呼ばれた者の役割⇒神のことば、思いを人々に伝える
現在のわたしたちも弟子たちと同じく、イエスに呼び寄せられ、養成され、そして遣わされています。時代による変化があるにしても基本的な役割、任務は「神のことば、思い」を多くの人に伝えることです。
年間第14主日:イエスを追い続ける何かに、忍耐強くこだわってみよう
イエスに対し「驚き」を感じる人がいれば、「つまずく」人もいたのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と、忍耐強く問い続けることができませんでした。
年間第13主日:日常の身近な出来事、ふるまいの中にイエスからのメッセージを見る
イエスが示す言動には、明らかに確たる「メッセージが込められて」います。身近に起きる出来事、振る舞いの中に、そのメッセージを読み取ることができれば、わたしたち一人ひとりの生き方に大きな変化がでてくるのではないでしょうか。
年間第12主日:「わたし流」の信仰伝達の道を求め、実現しよう
イエスは人を、民衆を、弟子たちを相手に神を示されました。それは「イエス流」の見せ方、示し方です。わたしたちも、「私流」の道を求め実現していきましょう。それによって、誰かを神の方へと導く機会となっていきます。
年間第11主日:人知れず働かれる神に関心を!時には心からの思いを馳せよう
神の働きは人間の目にはかくされています。見えないし、いつも人知れず静かになされるので、神の働きを感覚でとらえ、確かめることはむずかしい。だからこそ、時には神の働きに、思いを馳せてみることは大事だと思います。
年間第10主日:日常生活の中に働かれる神(聖霊)の介入を気づいているか
イエスが説く神の国は、血脈を中心とする人間関係を終わらせ、まったく新たな関係を作り出しています。人との緊密な関係を求める神は、イエスを通してわたしたちの間に介入されました。今もなおそれは続けられています。
キリストの聖体:無視されてもなお、わたしたちに留まろうとするイエスの愛
イエスは誤解されっぱなし、その挙句の果てが、十字架刑でした。イエスを擁護する人は誰もいませんでした。それでもなお、イエスはわたしたちの間に留まろうとなさるのです。これがの聖体の制定でした。つまり、一片の白いホスティアです。
三位一体:わたしたちは未完の信仰者。理解するより、信じて託せるかどうか
わたしたちは未完の信仰者です。常にともにおられるイエスを信じて、教えにしたがうとき、「弟子」とされ、宣教活動を通して、より完成へと歩き始めます。自分の信仰の内面を、いつもシンプルに見つめる訓練をしましょう。
聖霊降臨:「時」は何かを語り、教えてくれる。その中身をしっかりと聴き、心に留めよう
弟子たちは、自らが弱く、卑怯者であり、ずるく醜い存在であることを重々承知し、「祈り」の時が大事であるということもよく知っていました。現代の教会を背負っているわたしたちも同じく弱さ、醜さ等を身に帯びた存在です。弟子たちと同じく、「祈りの時」の必要性を感じているでしょうか。
主の昇天:世界の嘆き、自分の隣の人の苦しみ・叫びに敏感でありたい
教会は地球上のすべての被造物に対する責任があります。福音を宣べ伝えることは、一人間の信念やイデオロギーを伝えることではありません。イエスを伝えること、それだけです。そのためにも、世界の嘆きと苦しみの叫びをききとれる感性を豊かにしたいものです。
復活節第6主日:聖霊に信頼し続けながら、イエスが求める隣人愛の極みを求めて
イエスから逃げ去ったあの弟子たちが、純粋な愛に生きることができるようになったのは、聖霊が与えられたからです。 わたしたちも聖霊に信頼しつつ、イエスが求める隣人愛の理想を、日々の努力の目標にしましょう。
復活節第5主日:「わたし」の罪、醜さを包み込むイエスの心に「今」目覚める
「わたしのうちにとどまっていなさい」という呼びかけは、「わたしに信頼しなさい」という弟子たちへの励ましと招きの言葉でもありました。幹につながっているかぎり、その枝は生き続けることができます。