カトリック教会の日曜日のミサで朗読される三番目の聖書(福音書)を毎週木曜日の夕方更新。2017年からは第1朗読、第2朗読の掲載も始めました。ページでは主日(日曜日のこと)ごとにそれぞれの福音書に基づいた説教へのリンクもあります。また3年周期のA年、B年、C年を簡単に閲覧できるように工夫しています。
待降節第2主日:救い主を迎える準備は、どこでも、誰にでも開かれている
神の限りないあわれみ、いつくしみは罪の赦しを願う人々に向かって開かれています。クリスマスを迎える心とは、ゆるしが必要な人間であるという自覚ではないでしょうか。社会のいろいろな動き、ブームに巻き込まれながらも、自らの居場所を確認しておきたいものです。
待降節第1主日:飢え乾く心、そして調和の取れた心へ
きょうから待降節⇒イエスのご降誕を待つ期間。つまり救いを待ち望み、そのために一人ひとりの心を準備する期間です。今一度自らの人生のありのままを、改めて見つめてみましょう。そして、本人も気づいていない心からの叫び、乾く心を、そこに見出していければ・・・。
王であるキリスト:イエスの言動は、もっぱら人間の救いのために⇒利他の心
イエスの言動は、もっぱら人間の救いのために意図されたものでした。敢えて言うならば、「利他の心」いや、それ以上だったのです。今の「わたし」はどうでしょう。イエス降誕を前にしっかりと自分の「ありのまま」を神の前に差し出してみましょう。
年間第33主日:そのとき、選り分けられて「あなたがた」と呼ばれるために
「人々」から「あなたがた」を分けるものは、はたして何なのでしょう。わたしたちは、一人ひとり、それに答えることができているからこそ、今があるのです。 終わりに、人の子から「あなたがた」と呼ばれるために、・・。
年間第32主日:環境の変化の真ん中に、神のみ心を見る人、見ない人とは
「やもめ」も「いじめられている人」も、自らの人生の表にすら立つことができない人たちです。立ちたくてもそうさせてもらえない、なんとも歯がゆい歩みを強いられています。それは、人間の視点に立った時はそうですが、神の視点に立つと違うよ、ということを今日の福音はわたしたちに勧めています。
年間第31主日:「畏れ」と「恐れ」の境界線は?その間を漂流している「わたし」
「恐れ」を抱くとき、人は神から後ずさりし、もの(奉納物)にこだわろうとします。しかし「畏れ」は人を神に近づかせ、神と隣人を愛する(大切にする)ことへと向かわせます。
年間第30主日:イエスに呼ばれた「本道」の道のりは、いかに、・・・
イエスは一人の人の悩み、悲しみ、苦労、辛さ等、すべてのみじめな人間の姿をも見逃さないやさしさと配慮をお持ちです。そして、一端「本道」に招かれた後にたどる「道」はと言えば、きょうの福音の目の不自由な人がたどる「道」の体験なのです。
年間第29主日:イエスの生涯を貫いたのは愛、わたしたちのそれは何なのか
「仕える」こと、これは、他人の幸せのために尽くすことを求める言葉であり、行いです。イエスは人々から軽蔑され、ののしられ、捨てられ、打ちのめされたにもかかわらず、わたしたちのために、実際にそうなさったのです。
年間第28主日:人生苦、信仰の暗闇の真っただ中にいる「わたし」は、何をしている
イエスの意に沿うために、邪魔になっているもの、それが一番、その人にとって信仰を深める壁になっているということでしょうか。「わたし」にとっての邪魔ものは何?ありのままの自分をしっかりと見つめ、イエスの前で認め、そのままの自分を差し出すことができれば、・・・
年間第27主日:わたしたち互いの交わりは、永遠を見つめ、前に進んでいる
結婚の誓いは期限付きではなく、お互いがその命を神に返す時まで、つまり、永遠を見越した約束です。人間の営みはすべて、永遠に向かっています。イエス・キリストは、そのためにご自分を十字架上にささげられたのです。互いの交わりを深め高めてこそ、社会のひずみ、寂しさも正常化されていくのではないでしょうか。
年間第26主日:真の救いは十字架の神秘の中に⇒自己放棄を願い、祈る姿に
イエスが意図した救いの姿、それはイエスの生き方そのものに、十字架の神秘の中に潜んでいます。それは、イエスは、人間一人ひとりを大切にし、自分を中心に考えるのではなく、わたしたち一人一人を中心に動かれたのです。
年間第25主日:古傷に拘らず、ありのままの自分を差し出すことが出来れば…
弟子たちもわたしたちと同じ弱い、醜い、時には、いやらしい不足だらけの人間でした。彼らはそのことを認め、受け入れ、そこにとどまりながら謙虚さを学んでいったのでした。そして、イエスに出会う恵みをいただいたのでした。
年間第24主日:試練は「神の思い」と「人の思い」の違いの大きさから
イエスがペトロに「サタン、引き下がれ」と命じたのは、イエスの前に出て歩むのではなく、「わたしの後に退け」ということでした。「神の思い」と「人の思い」とがかけ離れているので、わたしたちには苦しみがあり、それがまた、大きいのでしょうね。
年間第23主日:イエスの奇跡の恵みは、例外なく、わたしたち一人ひとりに
イエスの奇跡は、この世にあるすべての人、そして、闇の中にあるわたしたち一人ひとりにとって、この世界に喜び輝きを与えるメシアとしてのイエスの姿が込められていると言えるでしょう。
年間第21主日:「つぶやき」が嘆き節ではなく、さわやかな祈りになるように!
自らの辛さ、苦しみ、やるせなさがどうしても気になり、周りに、ましてや神に、イエスに、目と心を向けることがおろそかになってはいないでしょうか。むしろ、そんな時こそ神にすべてを向ける、もってこいの「時」なのではないかと、・・。
年間第20主日:「信じる」ことは、イエスと「一つになる」こと。それは・・・
聖体を「信仰すること」は、イエスとの思いを共有することと言えるでしょう。いわゆる「一つになること」です。天の国で父と子が一つであるように、わたしたち共同体が一つになるようにしてください、とイエスは祈っています。
年間第19主日:信仰している「すごさ」に目覚める、「教わる、学ぶ」の心
わたしたちが日常の中で、通常におこなわれている「学び」「教わる」時の心を、意識的に思い起こすことができれば、より身近なところで、毎日、「信じている」恵みのすごさに目覚めることができるのではないでしょうか。
年間第18主日:なぜか頑固な「きょう」のイエス。本当の姿は?
イエスの言葉は、話しながらその中身を濃くしていくのに、群衆は探し求め始めた時からの思いからどうしても離れられないのです。それゆえに、ますますイエスと群衆の隔たりは広がっていきます。
年間第17主日:行き詰まった時は神の思いに戻り、自分の歩む道を確認したい
言葉とかサインとかは、他者が理解するための助けにはなるでしょうが、時には、誤解を生じることもあり得ます。その時、イエスはどうしたでしょう。「人里離れたところ」に退き、静かにおん父の思いを確認したのでした。
年間第16主日:日常は大事なことに繋がっている。「休む」ことは無駄ではない
「人里離れたところで休みなさい」というイエスの指示は何を意味するのでしょうか。人の知恵ではなく、神の知恵、神の愛を人々に伝え続けるために、祈りが必要、大切にされなければいけないということです。