カトリック教会の日曜日のミサで朗読される三番目の聖書(福音書)を毎週木曜日の夕方更新。2017年からは第1朗読、第2朗読の掲載も始めました。ページでは主日(日曜日のこと)ごとにそれぞれの福音書に基づいた説教へのリンクもあります。また3年周期のA年、B年、C年を簡単に閲覧できるように工夫しています。

四旬節第2主日:祈りはいつでも、どこででも、今の環境のもと神に向けて
人間の思いとしては、祈る場所、時はとても大事なことかもしれません。でも、置かれた環境で目覚めている限りが「その時」です。その時その時にあふれ出てきた思いが、自ずと言葉になって、訴えや嘆きの叫びになって出てくるものなのでしょう。

四旬節第1主日:わたしたち人間の人生は、みな神に向けられたものです
四旬節の始まりです。一日一日をもっと効果的に生き抜くために、すべてが神に向けられた一日一日であることを思い、意識し、確信できるように恵みを願いましょう。

年間第8主日:人との繋がりはおおらかに待つ心で、よりあたたかく・・・
現実の人間関係を生きる時、イエスのそれを範として生きていくべきだと、きょうの福音は勧めています。人とのつながりを一人ひとりが変えていく意識を持つならば、丸太を除いておが屑を除去したもっとあたたかい希望に満ちたものに必ず成長し、発展します。

年間第7主日:日々のいつもの動きの中で、「神を信じ切る心」が醸成される
現代に生きるわたしたちは「信じているつもり」で終わっていないか、信仰を深め高め、豊かにしていくには日々の小さな、卑近な生き方の中で、膨らんでいくものでしす。わたしたちがいるべき場所にいて初めて、神も関与してくださいます。

年間第6主日:イエスの熱い言葉は、いつも貧しい人たちの生きる源
神に向かってぬかずくのは、願いごとをかなえてもらうため、おねだりというよりも、今の「わたし」の生き方の指標を仰ぐためです。神の前にぬかずいてみましょう。いい黙想ができるのではないでしょうか。

年間第5主日:召命の出発点は弱さを自覚し、独りよがりから抜けること
召命の出発点には自分の弱さの自覚がある、ということです。このことは現代でも同じではないでしょうか。ペトロは万策尽きた状況を告白しながら、キリストを信じキリストに委ねたのです。

主の奉献:ひざまずいて願望成就のおねだりではなく、神の指導を仰ぎたい
イエスは自らの居場所を捨ててわたしたちと同じ境遇を選択なさいました。きょうの福音に言われている、わたしたちの救いのために、苦しみをその身に受けるためです。わたしたち人間への最大の配慮であり、恵みです。

年間第3主日:イエスの自己開示、それは救いの始まり宣言である
自己主張、私見を披露することはいいことですが、場合によっては、慎重に対応する術を講じる必要もあるでしょう。じっくりと確かめる心を持ちつつも、十字架上で亡くなったイエスのかくされた神秘に、少しでも迫ろうとする心は、大切にしたいものです。

年間第2主日:神はどんなお方?「わたし」に近い、それとも遠いお方?
人間は、自らが何も知らないままに危機に遭遇している時がありますが、神はそこにそっと来て救ってくれるお方なのです。神はそんなお方なのです。

主の洗礼:「わたし」の受洗の覚悟は何、それは今どこに、・・・
きょうはイエスの受洗記念の祝日です。受洗する必要はイエスにはないのですが、あえて民衆の中に入っていかれます。救いへの道を民衆とともに歩むためです。「民衆はメシアを待ち望んでいて・・・」で始まるきょうの福音。

主の公現:神の「秘められた計画」があらわになる
今日の福音の占星術の学者たちは、ユダヤのベツレヘムに生まれたイエスを礼拝するために星に導かれてエルサレムにやってくるのです。この東方の学者たちはイエスを礼拝しましたが、このことの中に、異邦人も神からの救いから除外されていないことが明らかにされています。

聖家族:「分からない」ときは「心に納め」、相手に寄り添うこと
「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」この対処のあり方は、歴史の中で働かれる神への信頼があって初めて可能な態度です。日常わたしたちが「分からない」とき、そのような対処の仕方を心がけているでしょうか。

待降節第4主日:信仰は育ち、豊かに鍛えられていきます。歴史の中で・・・
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」マリアが、わたしたち信仰者のみほんであるということを、聖霊はエリサベトを通して教えています。このマリアの信仰はイスラエルが暗闇の試みの中で鍛えられたまことの信仰です。歴史の中で信仰は鍛えられるのです。

待降節第3主日:救い主に出会う最高の準備は日常生活での「隣人愛」実践
きょうの福音は、救い主との出会いのために、もっともすばらしい心がまえ、準備するものは隣人愛の実践であるということを勧めています。それも、それぞれが生きている具体的な場においてのやさしさ、思いやり、いたわりが勧められています。

待降節第2主日:救い主を迎える準備は、どこでも、誰にでも開かれている
神の限りないあわれみ、いつくしみは罪の赦しを願う人々に向かって開かれています。クリスマスを迎える心とは、ゆるしが必要な人間であるという自覚ではないでしょうか。社会のいろいろな動き、ブームに巻き込まれながらも、自らの居場所を確認しておきたいものです。

待降節第1主日:飢え乾く心、そして調和の取れた心へ
きょうから待降節⇒イエスのご降誕を待つ期間。つまり救いを待ち望み、そのために一人ひとりの心を準備する期間です。今一度自らの人生のありのままを、改めて見つめてみましょう。そして、本人も気づいていない心からの叫び、乾く心を、そこに見出していければ・・・。

王であるキリスト:イエスの言動は、もっぱら人間の救いのために⇒利他の心
イエスの言動は、もっぱら人間の救いのために意図されたものでした。敢えて言うならば、「利他の心」いや、それ以上だったのです。今の「わたし」はどうでしょう。イエス降誕を前にしっかりと自分の「ありのまま」を神の前に差し出してみましょう。

年間第33主日:そのとき、選り分けられて「あなたがた」と呼ばれるために
「人々」から「あなたがた」を分けるものは、はたして何なのでしょう。わたしたちは、一人ひとり、それに答えることができているからこそ、今があるのです。 終わりに、人の子から「あなたがた」と呼ばれるために、・・。

年間第32主日:環境の変化の真ん中に、神のみ心を見る人、見ない人とは
「やもめ」も「いじめられている人」も、自らの人生の表にすら立つことができない人たちです。立ちたくてもそうさせてもらえない、なんとも歯がゆい歩みを強いられています。それは、人間の視点に立った時はそうですが、神の視点に立つと違うよ、ということを今日の福音はわたしたちに勧めています。

年間第31主日:「畏れ」と「恐れ」の境界線は?その間を漂流している「わたし」
「恐れ」を抱くとき、人は神から後ずさりし、もの(奉納物)にこだわろうとします。しかし「畏れ」は人を神に近づかせ、神と隣人を愛する(大切にする)ことへと向かわせます。