年間第24主日

日曜日の聖書

年間第24主日:わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う

年間第24主日(B年)の聖書=マルコ8・27-35 〔そのとき、〕イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを 何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。
2018年/B年説教=神への道標

年間第24主日:イエスは苦しみと十字架を通して、人間を救うメシア

イエスは順風満帆の人にも、辛さ、苦しみの真っただ中にいる人にとっても、さらなる「希望の光」を見させてくださいます。わたしたちがどのように変わろうとも、神は絶えることなく一人ひとりを支えてくださいます。
日曜日の聖書

年間第24主日:兄弟があなたに罪を犯したら、七の七十倍までも赦しなさい

年間第24主日(A年)の福音=マタイ18・21-35 〔そのとき、〕ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第24主日:あわれに思うとは、見て見ぬ振りができない神の心

多くの人が、日常生活を離れた特殊な生活現場で生きているわけではありません。ごく日常的な生活、心がまえの中にこそ、聖なる人になるべき現場があると、今日の福音は示してくれます。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第24主日:あなたはイエスさまが気になっていますか!?

わたしたちにとって、いい人としての「気になる人」については、もっと正確に知りたくなるものではないでしょうか。「悪い人として」気になる人って、はたしているのでしょうか。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第24主日:いつくしみの神は「落伍者」がでることを望まない。

今日の福音に登場する話、迷った子羊、銀貨を失った婦人、放蕩息子の話に共通することといえば、「いつくしみの神」が描かれていることです。失ったものを捜しあてた時の喜びは何とも言えない安堵感を与えてくれます。イエスさまもそのような温かい心でわたしたちに迫ってこられるのです。
日曜日の聖書

年間第24主日:一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちに喜びがある。

年間第24主日(C年)の聖書=ルカ15・1~32 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第24主日:教会共同体は、みなが喜ぶ集いになっているでしょうか?

救いに条件があるとすれば、集められたわたしたちが、一緒に喜ぶ「つもり」があるんですか、ということです。今の教会共同体がみな、「一緒によろこんでいる集い」になっているかどうかです。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第24主日:イエスはユダヤ人のこの世的メシア像を砕いた

ユダヤ人のメシア像は、ローマの支配から人々を解放し、自由と独立を与える存在。イエスは「あなたは神のことではなく、人間の思いにしたがっている」と、彼らのメシア像を砕いてしまいます。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第24主日:信仰生活と日常生活に遊離はない。日常の行いが大事

今日の福音が強調しているのは「ゆるす」ということです。わたしたちの日々の生活は、このゆるしを前提に織りなされているといっても過言ではありません。それだけに大切な日常の心がまえとなります。