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年間第24主日:わたしの喜びは、神の喜び。神の世界に「落伍者」はいない

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第24主日(C年)の説教=ルカ15・1~32

2019年9月15日

自然環境は今も昔も、農家にとっては恵みをもたらすと同時に最大の泣き所でもあります。お茶の生産者にとっても同じです。「自然とのハーモニーが作り出すお茶として、価値あるものに転換して地域に広まっていけば」と願って、日々、自然界の変動に苦労を重ねながらも、創意工夫を施しつつ、生産に従事しておられます。(京都新聞2019年9月5日朝刊)

霜害にあった茶葉を創意工夫で製品化

その中で、霜害に遭い、従来ならば処分してしまう茶葉を、和束町(京都)で茶を生産、販売する「京都おぶぶ茶苑」が製品化したそうです。今年は広域で霜害が発生しました。丹精込めた茶が捨てられるのは忍びないと試み、製品化にこぎつけたのだそうです。中国などで生産される白茶に発想を得た発酵茶で、ユーモアをこめて「霜降り茶」と名付けました。おぶぶ茶苑は「被害が出た年にしか飲めない、幻のお茶として受け入れてもらえれば」と期待しています。

霜が降りた新芽は赤茶色く枯れてしまい、一般的には処分してしまいます。おぶぶ茶苑では、中国には摘んだ茶葉を干してしおれさせた後、発酵させる白茶があることに注目。「霜害にあった新芽は自然に白茶になっているのでは」と思ったといいます。そこで、枯れた新芽を摘んでさらにしおれさせ、茶葉が持つ酵素で自然に発酵を進め、乾燥機で乾燥させて仕上げました。

落ちこぼれを蘇らせた新発想と努力

こうして、生産者の新たな発想と努力によって、自らの困難を乗り越えると同時に、いわゆる「落ちこぼれ」となっていた茶葉を、見事よみがえらせたのでした。つまり「霜害転じて幻のお茶」になったというわけです。このようにいい結果が出ますと、それまでの苦労も「思い出話し」で終わってしまいそうですが、生産者にとっては、それまでの経過が、体験が「自信」となって次の一つ上のステージへ上っていこうとする勇気と力をいただきます。

このような体験は、人の営みの中で、わたしたち自らも味わう体験ではないでしょうか。先の話は生産者と茶葉との関係でしたが、一方で、われわれ人間は、究極的には、神と人間(自分自身)との関係に落ち着くのではないかと思うのです。

行き詰まったときにどうしてますか?

日常の生活で、わたしたちは行き詰まってきたときにどうするでしょうか。やはり、その状態から抜け出ることを考え、工夫し、努力するでしょう。それでもどうしようもなくなった時、神に手を合わせたくなるのではないでしょうか。神に「恨みつらみ」を言いながらも、やはり、神をどこかで意識しているのです。だから、文句も言いたくなるのです。

落ち込みの原因が自らにある時もあれば、他者にある場合もあるかもしれません。しかし、日頃の他者とのかかわりはどうだったのでしょうか。遠因は、自分にもあるのではないかと思われることが多々あります。とどのつまり、どんな場合を取り上げても、何がしかの原因は自分にあると言えるような気がするのです。

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今日の福音では、イエスは、明らかにファリサイ派の人たち、また、律法学士たちにはわかりにくい、というより、彼らが嫌がるであろうことを指摘されます。

律法的には「落伍者」だったとしても

聖なる存在である神は、人間が聖なる存在であることを求めます。したがって、ファリサイ派の人たち、律法学士たちは、民衆が聖となるための形、道を定めました。それから外れる人は、汚れた者として神から見捨てられた人たちであると考えたのでした。このような見方、考え方は、恐ろしい結果を招いてしまいます。

つまり、ほとんどの民衆が人生の、救いの「落伍者」になってしまうのではないかということです。どうしようもなく、救いようのない、いわゆる「落ちこぼれ」が生まれるということです。実際に、現実の社会では、能力がない人は置いてきぼりを食らい、落伍者となる人の姿をたくさん見ています。

救いの世界に「落伍者」はあり得ない

でも、救いの世界に「落伍者」があるなんて、たまったものではありません。考えられないことです。だって、自らを見ればよく分かるんじゃないでしょうか。完璧な自分ですか。非のうちどころのない生き方ができていますか。人間であれば、みなが感じている、みなに共通した「人」の姿ではないかと思いますが、・・。

イエスは、ファリサイ派の人たちの考え方が、誤りであることを伝えるために、たとえを話されたのです。今日の福音の三つのたとえ話には、共通したものがあります。あわれみを注がれる神がいるということです。しかも、神自らが、わたしたちが悔い改めるより先に、わたしたちを捜し出そうとしている姿があります。

神が先に私たちを探しまわっておられる

また、「善を行って神にゆるしを願う」という、人間の努力行為を前提としていないのです。捜しまわっておられる神に出会えた喜び、それに対する反応として、わたしたち人間の悔い改めが始まるのです。「一緒に喜んでください」「祝宴を開いて、喜び合うのは当りまえではないか」という言葉は、そのことを証ししています。

喜びも、神が先に喜んでくださっているのです。このことをファリサイ派の人々が気づくはずもありません。今のわたしたちはどうでしょうか。自分が喜んでいることだけで、満足していないでしょうか。神が喜ぶことは「わたし」の喜びでもあるのです。つまり、「わたし」が嬉しいことは、神が先に喜んでくださっているからです。

どこかで落ち込んでいくしかない「わたし」にとって、イエスは力であり、希望なのです。生まれてこなくてよかった人なんていないのです。

 

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