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年間第24主日:お互いの命を慮るやさしい心を大きく、豊かにしたい

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年間第24主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第24主日(A年)の聖書=マタイ18・21-35

2023年9月17日

近年子どもについての研究、発見は進化したが

子どもを取り巻く環境問題が取りざたされ始めてから、これまた久しくなります。「子ども自身」についての新たな研究、発見等は目まぐるしく進んできたようですが、それに即した生きる環境はなかなかです。一朝一夕にて実現できる類の課題ではないですが、・・。それよりも、新たな事件事故が相次いで起こってきていることが気になります。虐待、ネグレクトに始まり、通園バス内の置き去り事件、不適切保育等、次から次です。そのたびに、新たな法律ができてきます。法律でなくても「ガイドライン」が発出されてきます。

事件、事故の度に発出されるGラインに違和感

最近のこうした動きを見つめつつ感じることがあります。事件の度にできる法律、ガイドラインについてもまた、ちょっと問題を感じてしまうのです。要するに「ガイドライン」なるものも、国が策定したガイドラインの内容を踏まえ、それに沿って、場合によっては地域毎に、都・府・県・市・町・村独自のものが出回ってきます。より具体的に取り組み方の事例を挙げて発表されます。より効果を上げることが出来るようにとの願い、狙いでしょう。その上で、いざ、個別に施設に出向いて監査するときには、そのガイドラインに沿って、実施されているのか、いないのかをチェックしていくんですね。ガイドラインの内容項目は、だれがどのように策定し、決定するんでしょうか。現場にいる者にはストレスを感じます。足りないところ、ダメそうなところをいくら指摘しても、また、その対策を講じたとしても、今の保育は、その働きはそんなにダメなんですか。良いところもあるのではないかと思いますが、・・。やって当たり前ではなく、評価していく姿が一方では大事だと感じます。

現場の本質的な問題を捉え切れていないのでは

文言では何とでも表現できます。でも現実の現場では「文言」通りにすべてはいかないです。机上で考えることと、現実の場ではかなりの隔たりがあるように感じます。つまり、この現場とあの現場では、必ずしも同じ経過をたどらず、同じ結果にはならないということがしばしばあり得ます。同じ問題に見えても、場所が違うと・・です。そもそも最初から同じ問題ではなかったということでしょう。似ているかもしれないけど、・・。十把一絡げで「人」「事件」は、その本質を見抜けるものではないと思っています。

鹿児島市は6日、市議会において、「不適切保育」の防止に向けた市独自のガイドラインの案を示しています。(南日本新聞2023年9月7日朝刊)

教育の根本は教師の人となりを通して提供される

「保育」「教育」はテクニックだけで施されるものではなく、根本的には、教師の人となりを通して提供されるものではないんでしょうか。特に、幼少期においては。テクニックも必要ですが、それはあくまでも補助的、補完的な役割です。「教育する」ことが人と人とのかかわりだからです。知識の伝授だけではないからです。そのかかわりは、知識、テクニック以上に子どもたちに影響を与えます。彼らの「人となり」にかかわってきます。

わたしたちはどこにいても、何をしていても一生懸命生きています。でも、生きていく過程で大事なことがあります。誰もが感じ、誰もが納得してくれることではないのかなと思います。それは「ゆるし」「ゆるされながら」生きているということです。

”ゆるし・ゆるされながら”生きることの大切さ

どなたも、自分が完全な人間で、非の打ちどころのない存在であると思っている人はいないでしょう。欠点多き不完全な、つい身勝手なことを思い考え、その行動に走りしがちな人間であると思っているのではないでしょうか。だからこそ、誰もが持たなければいけない心構え、それが「ゆるしあう心」ではないかと思うんです。

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826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

人は意識的に陥れてやろうと思えば別ですが、普段は傷つけようと思ってしゃべる人、行動する人はいないでしょう。結果として相手を悩ませてしまうことはあります。その時はゆるしていただくしかないんですよね。

イエスが教える”赦し”は「限度を置かない」こと

イエスはゆるしについて頻繁に説教しています。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6章 14~15節)これからもわかるように、「赦し」は、福音の本質的な教えであるということです。

すなわち、消極的な言い方ですと、「赦し」は自分が受けた損害を我慢することです。「我慢すること」ですから当然のように限度があります。しかし、イエスの「赦し」には限度がありません。ということは、イエスの赦しは我慢ではないということです。イエスが今日の福音で「七の七十倍」と答えて問題にしているのは、厳密な意味での回数ではなく、赦すことに限度を置く「赦さない心」なのです。したがって、繰り返しになりますが、イエスの「赦し」は「限度を置かない」のです。

今日の福音で言われていることは、「赦し」は物質的被害ではなく、兄弟との交わりの回復です。神との交わりの回復です、ということです。

「赦し」は被害ではなく兄弟との”交わりの回復”

今日の例えの王は、とてもじゃない借金を抱えている家来に、貸した金の額を我慢したのではなく、その家来を「憐れに思った」のです。この王の「深い憐れみ」が家来への「赦し」となって現れています。つまり、王と家来はお互いのかかわりを損なうことがなくなったのです。正確に言えば、王の憐れみによって、家来は王とのかかわりを失うことなく、回復させていただき、これまで通りの関係を続けて行くことが出来るようになったのです。

わたしたちの日常も同じです。わたしたち人間お互いも、お互いが慮る心を持ち合わせることによって、断ち切れそうになっているかもしれない関係を修復し、交わりを損なうことなしに保たれていきます。実に、神の憐れみによって赦され、それは神からの恵みです。神の前に「仲間」として生きることになり、人を心から赦していくように招かれているのです。

人間である限り、子どももお年寄りもなく皆が、そのいのちを尊び、その存在を認識し、評価し、慮る心をもってその生き方全体を大事にしていくかかわりを、これからも増長させていきましょう。

「いのち」に対する「やさしさ」を育んでいきたいですね。

 

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