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年間第25主日:信仰者の「固定観念」はプラスか、それともマイナスか?

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年間第25主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第25主日(A年)の説教=マタイ20・1~16

2023年9月24日

宇宙を往復するほどの科学の発展に感動!

科学の進歩発展はどこまで行くのでしょうか。何の知識もない者、わたしのことですが、にしてみますと、どうして、地球の、ある狭い場所に住んでいて、人工衛星を宇宙に打ち上げ、小惑星「イトカワ」とランデブーさせ、その他いろいろな観測を宇宙でした後に、地球に帰還するなんて、どうやってそんなことが出来るのだろうかと思います。「夢があって素敵だ」という人がいますが、そんな気持ちよりも、わたしは感動する方が先に来ます。その「はやぶさ」が地球に戻ってきたときは身震いするほどの感動でした。それも、何か重大なトラブルが発生して帰還を諦めかけていたのではなかったですかね。小惑星からの帰還は国際的にも例がなかったということでした。

人間が持つ能力は偉大でも、やはり限界があります。それを知りながらも、それ以上の考えを抱き、走ってしまう人がいるのも事実です。これがまた人間の良さであり、発展していく力ともなっています、邪悪な思いが入ってこない限り、・・。

限界への挑戦こそが成長の原動力とは言え

ところが、そのような人ばかりではないのが人間社会の現実です。わたしたちは成長していく過程で自らの考え、主義主張を抱き、確信し、それによって自らの存在価値を高め、求められている分野で、人々の、社会のニードに奉仕していくのです。それこそきれいごとばかりで世の中が進んでいけばいいのですが、「妬み心」が邪魔をし、まともな進路を辿らないことがしばしばあるのです。

さらに悪いことに、人間的な常識、というよりは、自らの身勝手な思いでつくりあげた「固定観念」まで抱いてしまってはどうしようもありません。いつの間にかその観念に支配されている自分があるのです。そして、それに気づかず行動してしまっています。いわば自分の思い込みが、自らの言動を委縮させ、他者との関係を遮断させてしまっているのです。そのことを他人のせいにしてしまって、悪い思いがさらに悪いことを生んできます。そして、悪(ワル)のスパイラルにはまり込んでしまうのです。

SNS上のウケを狙った誹謗中傷に有罪判決

SNSの誹謗中傷事件で侮辱罪に問われ、拘留29日の有罪判決を受けた東海地方のアルバイト男性(24歳)が打ち明けています。

元々、Xで自身の趣味に関する投稿をしていたのですが「『いいね』が全然もらえず、面白くなかった」と。しかし、誹謗中傷事件の3か月前、他人を攻撃する動画を投稿すると多くの人に拡散され、自分の動画投稿に対する「反響が嬉しかった」という体験があったのです。

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826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

そもそも、その誹謗中傷事件というのは、東京池袋の乗用車暴走事故で、松永真菜さん(当時31歳)と長女莉子ちゃん(同3歳)が亡くなったことを受けて、交通事故の防止を訴えるご主人の松永拓也さん(37歳)に対する中傷をXに投稿したことです。「他人を攻撃する動画」を投稿した反響に、満足感を覚えた彼は、その後も、人を煽ったり、揶揄したりする投稿を始めていたのです。

男性は公判で「インターネットでの発信はしない」と述べていますが、今も投稿を続けています。「人を傷つけることはもうしたくない。でも注目されたい気持ちは変わらない」とも言っています。(讀賣新聞西部本社2023年9月19日朝刊)

人の視野を狭めている大きな要因は固定観念

イエスの時代には、現代のようなSNSなる手法はなかったでしょうが、人の心は、昔も今もそうそう変わるものではないようです。普段は表には出てこないのですが、出てくると確実に「他人非難」となってしまいます。人の中にある「固定観念」です。思い込みを含め、その実、その人の視野を狭めている大きな要因となっているのではないでしょうか。イエス時代のユダヤ人は、自分たちが苦しい目にあうと、自分たちの罪、堕落、偶像崇拝のせいだと思い込んでしまっていました。そのために神に近づく資格がないと思い込んでいたのです。

イエス自身も、このあおりを受けて、人々から受け入れてもらえなかったのです。イエスの説教も、奇跡も、何をしてもこの「固定観念」が邪魔をして拒絶され続けました。人間の常識を超えた神の愛を語っても、その業を示しても、人々の怒りをかってしまったのです。

今日の福音のたとえ話は、人間を大切にする神の心が示されています。たとえ話の頂点は、雇い主が常識外れの賃金を支払うことにあります。主人は朝早く雇った人には「一デナリオン」で約束しています。9時ごろ行って雇った人には「ふさわしい賃金」で約束します。そして、5時ごろ行って声をかけた人には何も賃金の条件を言いません。これにはイエスの意図したものがありそうです。

つまり、「一デナリオン」「ふさわしい賃金」で雇われたものにとっては、自分の働きに対する当然の賃金です。ところが、一時間しか働いていない人にとっては、予想外の恵みだったとしか言いようがありません。

「天の国」は報酬ではなく、あくまでも恵み

今日のこの話は、神がどのような方なのかを教えているといえます。別の表現をすれば、「天の国」は報酬として与えられるのではなく、あくまでも恵みとして与えられるものなのです、ということです。

今のわたしたちはどうでしょうか。神は聖なる方なので、努力しないものは信仰者としてふさわしくない、という考え方から、弱い人、罪びとに対して厳しい姿勢をとってはいないでしょうか。わたしたちの共同体から追い出したりしてはいないでしょうか。批判、非難したりして追い詰めたりしてはいないでしょうか。

神は何よりも人間のみじめないのちを感じる方です。神は憐みの方です。神は確かに正しく、聖なる方です。でも、そのまえに、神の心は憐みにみちておられるのです。このことを先に、もっと見つめるべきではないでしょうか。厳しいまえに、やさしく温かい方です。その一番の証は、十字架上でご自分のいのちを、わたしたちのためにささげられたイエスの姿がそうです。

信仰者としてわたしたちが抱いている「固定観念」を、今一度見直してみましょう。

神に対して、人に対して、・・・。

 

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