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年間第29主日:「わたし」には神の似姿が刻まれ、すべては神からの預かりもの

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年間第29主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第29主日(A年)の説教=マタイ22・15~21

2023年10月22日

『人は人、自分は自分』が現代流の新価値観か

わたしたちの日常は、実にたくさんの出来事の連続でおりなされているといえるでしょう。中には、時の経過とともに忘れ去られてしまうこともありますが、また、ある出来事は、その出来事が新たな問題の火種となって、大きな社会問題と化してしまうこともあります。

いずれにしても、自分の身近に起きるトラブルに限って言えば、どちらかといえば、自己中心的な発想から導かれてくる当然の帰結ではないんでしょうか、と思ってしまうことが多いです。それだけ、一人ひとりは己のことが大事だし、そのことが周りの人、ことに対して目を閉じてしまうことになっているのかもしれませんね。現に、「人は人、自分は自分」という考え方が新たな価値観として認められている時代になっているのでしょうか。

「ジャニーズ問題」で多くの人が傍観者だった

先日、新聞を読んでいますと、「レイプカルチャー」ということばが目に入りました。

科学史家の隠岐さや香さんが「レイプカルチャー」の説明をしています。「性暴力が日常化し、加害者にならないための教育がおろそかにされたり、性被害が『ささいなこと』とされたりする状態を指す。日本全体がその中にあったといえるだろう。結果として、多くの人が傍観者として外国の報道が問題に光を当てるまで待っていた」と。(南日本新聞2023年10月16日朝刊)

これは故ジャニー喜多川氏の性加害問題が新しい局面を迎えたのを契機に、「ジャニーズ問題・傍観者ではいけない」との隠岐さんの思いも含まれているのでしょうか、投稿されている文の一節です。

高裁判決後20年、BBCの報道で表面化

そもそも、この問題が表面化する契機になったのは、英国のBBCによる報道を受けて、被害者から告発の声が相次いだことによります。だが、2003年に東京高裁判決が故喜多川氏に関する性加害報道の真実性を認めています。それから20年が経過しているのです。メディアのジャニーズ事務所に対する忖度があったのは間違いないといわれています。同時にそれは日本社会全体がこの規模の性被害に対し、なぜこうも無関心だったのかということでもあるでしょう、ということでこの投稿をなさっています。

わたしたちは弱い存在です。でも、それは失敗して他者からそのことを指摘されて初めて、自分が気づくことでもあります。こう言うケースがほとんどではないかと。実に悲しいかなです。関心がないといつまでも放置されていきます。結局は、どの問題も「わたし」自身に、問題の根っこは原因しているということが出来るのではないでしょうか。

「神のものは神に返せ」と言うイエスの意図は

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」というのは、イエスが今日の福音の中でファリサイ派の問いに答えたものです。ファリサイ派の問いというのは、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どう、お思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」というものでした。

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この問いには、イエスを追い詰め、イエスの弱みを、なにがなんでもつかみ取ろうとする彼らの悪だくみが隠されていました。イエスはいち早くそのことを察し、ファリサイ派も想像できなかった見事な答えを返されました。彼らはぐうの音も出なかったのです。

しかし、じっくりとみ言葉を読み返しますと、ファリサイ派の人たちは、「神のもの」については何も尋ねてはいないのです。なのに、イエスは「神のものは神に返せ」とあえて言われるのです。そこにあるイエスの意図は何なのか、その意志を汲み取る必要があるように思います。

イエスはその答えの冒頭で、ファリサイ派の人たちに向かって「偽善者よ」と呼びかけます。いきなり「偽善者」はないだろうと思いますが、ファリサイ派の悪意に気づいていたのでそういわれたのです。彼らがお世辞を言って近づいてきたからではなく、日頃はローマの硬貨を平気で使用しながら、納税問題になると一変して敬虔ぶるからです。その硬貨には、当時、神格化され始めていたローマ皇帝の像と銘が刻まれていました。その硬貨を使って税金を納めることは、イスラエルの神への背信行為となります。彼らはローマへの納税については神への信仰を問題にしますが、日常その硬貨を使用することに関しては何の疑問も抱いていないのです。だから「口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタイ15章8節参照)ので偽善者なのです。

自分に刻まれた「神の似姿」を見つめるように

その上で、「神のものは神に返しなさい」と付け加えられます。イエスは、それまでも、そしていつも、「人」を大事にしてきました。どうしてかといえば、人には誰でも、「神の似姿」(創世記1章26節)が刻まれているからです(エレミア31章33節)。ファリサイ派の人々も同じす。だから、このことに気づくようにとのイエスからの促し、招きがこの言葉には込められているのです。皇帝の像が刻まれている硬貨を見て、もち歩いて使っていますが、自分の中にある神の似姿を見ていないのです。忘れているのです。だからイエスは、ファリサイ派の人々がこの事実を思い出し欲しいと求めておられます。

わたしたちは、この命にはじまって、わが身にかかわることすべて神からのものです。それ以外のものがあるでしょうか。自分たちが持っているものは、自分で獲得したものだと思っているとすれば、それは錯覚です。自分の人生を自分の意のままにできますか。できません。

「自分の意のままに」といいながら、その思いばかりで追い求めても、・・・。一方で、「わたし」の人生にこのような出会い、このような友、出来事に出会えたのは、それまで支えてくれた神がいたからではないのでしょうか。それはとても自分にとっていいことばかりでした。苦しかったことも含めて、・・。その実、神からの恵みだったのです。預かりものだったのです。

だから、神に返していかなければいけないのです。

 

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