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年間第28主日:日常に届く神からの”招待状”。構えずに、でも意識して応えよう

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年間第28主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第28主日(A年)の説教=マタイ22・1~14

2023年10月15日

多くの人が慕い、尊敬し、気になる存在とは

わたしたちは、どこに住んでいても、どんな仕事をしていても、人間共同体を構成しています。それは、一人でいるよりも共にいることによって、より効果的な生き方が、助け合いが実践できるためであり、より日々の生活を、個人的にも生き生きとした楽しいものにしていくためでありましょう。何よりも、そうすることは、同時に神への賛美と感謝の祈りでもあるからです。

また、多くの人から慕われる、尊敬される、気になる人ってどのような人でしょうか。それは、誠実な人であり、正直者で、一生懸命で、苦労を惜しまず仕事に奉仕し、他者のために役立っている人など、その他多くの前向きな生き方を目指す人等々、きりのない事由がでてくるのではないでしょうか。また、それは一人ひとりによってその内容も異なってきます。でも、共通して言えることは、誰が見ても、万人から、いい人だなと認められるものを備えているのは確かでしょう。因みにみなさんがそのように思っている人はどんな人でしょうか。時々は意識的にそのことを振り返ってみるのも、より新鮮な、充実した人間関係を構築するために大事なことかなと思います。

腹を立てながら気になる「北朝鮮拉致被害者」

全く事由は異なりますが、特別な事由によって気になっている人がいます。長年、日本国民が関心を寄せている出来事、人たちです。どうにか善処されますようにと願って約半世紀。言うまでもないですが、北朝鮮拉致被害者のみなさんです。この事件については、誰もが腹立たしさを抱いているのではないかと思いますが、拉致された被害者のみなさまのご家族は、日々心配が募って体調を崩し、また、高齢化により、再会もかなわないままに天に召される人が増えています。残念なことです。

その中に、横田めぐみさんがいます。彼女は1977年11月15日、13歳で被害にあわれました。それが今では59歳になられます。まだ親を慕う年齢にある彼女を親御さんは受け止めつつ、まさに「子育てのキャッチボール」をしている最中の話でした。

その当時の小・中学校の同級生らが、去る7日、新潟市内で再会を願うチャリティーコンサートを開いています。(南日本新聞2023年10月8日朝刊)これには横田めぐみさんの弟哲也さん(55歳)も参加し「絶対に諦めない、必ず取り返すという気持ちに尽きる。必ず正義は勝って家族は取り戻せると信じている」と強調なさいました。

コンサートでは同級生ら約20人が「翼をください」を歌い、「故郷」では曽我さんと哲也さん、観客約300人も共に合唱しました。母早紀江さんはビデオメッセージを寄せ「元気でいてくれるんだと信じて訴え続けていく」と力を込めておられます。同級生の池田正樹さん(59歳)はコンサート後、報道陣の取材に「めぐみさんに早期に返ってきてほしい、それだけだ」と話しています。

この拉致事件は、実にひどい話です。当時も今も、一つの国が他国の国民を「拉致する」なんて誰が思いますか。考えつきますか。子どもの遊びじゃないんですよ。実に残念です。言葉で表現のしようがありません。

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とはいっても、「残酷な事件」はいまだに絶えません。むしろますます巧妙に、しかも、ある時は生々堂々と強く、多く、そして、広範囲にわたっています。何がそうさせるんでしょうか。

イエス時代の残酷な事件>>きょうのたとえ話

しかも、その残酷さは何も今のことだけでもなさそうです。イエスの時代にも似通った出来事が確かにあったのです。今日の福音の話も、そのような時代背景を抱えてのたとえ話です。イエスは、このたとえ話を通して、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とありますので、救いに招かれた人のあるべき姿を教えようとされています。

まず考えなければいけないのは、イエスと当時の指導者階級の律法学士、祭司たちとの対立は、避けることが出来ないほどに深刻になっていたということです。このような思いの中にあってイエスは、あえて彼らにこのたとえ話を語ります。

婚礼の招きを無視、使いの家来に乱暴した人

お招きを受けることは、今のわたしたちの日常の中でもよくある話です。でも、お断りをするときは丁寧にするのではないですか。たとえ話の中にあるよう断り方はしませんよね。何も断りの理由は記されていませんが、目の前の現実にのめり込んで、それにとらわれていたのではないでしょうか。

確かに今のわたしたちも同じように、自分の生活を築き上げ、財政的に安定した生活をと夢中になります。それを豊かにしてくれるものに対しては敏感に反応します。そして、どんな困難でも乗り越えようと懸命に求めます。自分にとって不利だとわかれば、それからの脱却を願ってあれやこれやと力を注ぎます。その時に、イエスの呼びかけは響いていますか、届いていますか、と問われても、気づかないか、または、聞こえない、届いていないふりをするか、いずれにしても気になっていないのがほとんどです。

宴会に招かれたたとえ話の人々も、別の関心を持った人々だったのです。したがって、無視することが出来ました。

婚礼の招きに応じたが、礼装していなかった人

でも、あとの人たち、大通りにいて呼ばれた人たちです。家来たちの呼びかけに応じて形としては招待を受け入れました。でも、その宴会にふさわしい服装ではなかったのです。「当り前じゃない」と思いますよね。そのつもりではなかったから。礼服なんて着けているわけがないでしょう、と考えてしまいます。

でも、この話は「救いに招かれた人のあるべき姿」を伝えようとされています。それは、「いつも」が大事なのです。日常が、普通が大事なのです。信仰を生きるのは、現実の日常生活の中です。だからこそ「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24章44節参照)と言われている通りなのです。礼服をつけていないのは何も他人事ではないんですよね。

ミサにあずかるのは形だけではない。神とのより真実な交わりに招かれているのだという思いを意識して、大事に、これからはもっと・・。

 

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