カトリック教会の日曜日のミサで朗読される三番目の聖書(福音書)を毎週木曜日の夕方更新。2017年からは第1朗読、第2朗読の掲載も始めました。ページでは主日(日曜日のこと)ごとにそれぞれの福音書に基づいた説教へのリンクもあります。また3年周期のA年、B年、C年を簡単に閲覧できるように工夫しています。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第33主日:人として、信じる者として「生きる」信条はどこに・・・
きょうの福音では、終末とそれに先立って起こる出来事をテーマとしていますが、「これらのことがすべて起こる前に」と言って、わたしたちを現実に引き戻します。そこは、わたしたちが託され大切な使命を果たす場なのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 ラテラン教会の献堂:新しい神殿(イエス)の中で、わたしたちの叫びと神の恵みが出会う
イエスが強固にまた強引に、ユダヤの人々と対立してまで、神殿のありさまにこだわったのはどうしてだったのでしょうか。エゼキエルが今日の第一朗読で説くように、神殿はすべてのものに命をもたらす神の住まいです。しかし、それは容易に人間の欲望の住まいに堕落してしまいがちです・・・
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 死者の日:「人の思い」だけに支配される人生にならないように!
きょうの福音からイエスのメッセージを受け止めようとすれば、一つは「人の思い」だけに支配される生き方ではなく、「神の思い」によってわたしたちの歩む道を照らす努力を怠ることのないように・・。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第30主日:神のみ心に響く祈りは、弱さを知り、神により頼む人の言葉
きょうの福音に登場する二人はその「弱さ」への対処に大きな違いがありました。義人ではなく、罪びとを招くために来られた方は、徴税人こそ神の前に正しい人だと教えられました。神は「自分を便りにする人」ではなく、「神を頼りにする人」を義とされたのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第29主日:キリスト者は、落胆せずに疑うことなく「絶えず祈る」こと
父である神はいつも祈る者から目をそむけることはなさいません。必ず、しかも速やかに祈りを聞き届けてくれます。だからキリスト者は、落胆せずに疑うことなく「絶えず祈る」ようにと教えられます。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第28主日:真の信仰は、「告白」することにより実る
真の救いは「清くされた」だけでなく、「癒された」ことに気づくこと。奇跡はあくまでも「信仰する」ことの入り口でしかなく、その出来事の奥に「いやす方」の指、力を見て神との交わりに導かれていく。そのことを感じ取りたいです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第27主日:人には神の恵みが必要!だから叫ぶ「信仰を増してください」
神は万物の創造者であり、わたしたちは被造物。ですから神とわたしたちとの間には本質的な差があり、わたしたち人間がいかなる努力を重ねたところで神と交わる資格や権利を得ることは出来ないのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第26主日:財産の保有はどこまでがゆるされるのか。信仰の戦い?
この世で生きるわたしたちには、天の国を垣間見ることができません。しかし、神のみ言葉を聞くことはできます。「聞く」ことが救われるか滅びるかの分岐点になります。その結果、「聞く」ことは日常の生き方を変えてくれることにもなります。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第25主日:「わたし」の日々の必死さはどこにあり、どこに向いているか
今日のイエスのたとえ話が分かりにくいのは、話の内容と結論が、人間の常識から離れすぎているから。イエスは管理人の不正を見習えと言っているのではなく、ぎりぎりの状況にある自分を意識し、そこから抜け出ようとする「必死さ」を弟子たちに訴えたかったのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 十字架称賛:十字架、それは神の思いを人々に伝えるためのしるし
十字架は罪を認めて見上げたものに命を与える神の愛の現われです。神は、独り子を与えるほどに、この世に対する深い愛を示され、滅びに向かいさばきを免れない「わたしたち」をお見捨てになれなかったのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第23主日:全ては神に向かっていてこそ真の価値を持つことが出来る
イエスがわたしたちに望まれているのは、相手についての理想の像を捨て去り、自分の夢を捨て去ることによって、あるがままの相手を背負い、あるがままの自分を背負ってイエスに従うことを求めておられます。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第22主日:今日、イエスはなにを「わたし」に語っているだろう?
「信仰者」としての成熟度がはかられるのが、今日のみ言葉です。分かりやすく表現しますと「自分自身を高くする者は神が低くするだろうし、自分自身を低くする者は神が高くするだろう」の意味になります。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第20主日:イエスの愛を受け取った「わたし」は、日々をどう生きる?
人々は神から遠くに離れているにもかかわらず、神の側に立っていると信じきっています。自らの思いに自信満々。神に目を向けない人がつくりだす平和はみせかけのもにすぎず、いずれ破綻をきたすのは必定です。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第19主日:「神の約束の実現」を確心し、確認するのが信仰
わたしたちは受洗の時に、神の確かさを受け入れたのです。改めて思い出し、見えないけど確かな未来に進むことが出来ますように、「キリスト者らしさ」を自己確認しましょう。確かさは、わたしたちの信仰にあるのではなく、神の約束にあります。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第18主日:生きる軸足を「上にあるもの」に置く。その第一歩はどこに?
イエスが言いたいことは何でしょうか。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と。つまり、金持ちの愚かさの根源は、「自分のために富をつむ」ことにありました。現代に生きているわたしたちはどうでしょうか。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第17主日:信仰者の祈りは信頼をもって心を開き、神にすべてを委ねる
神とわたしたちとの関係の始まりは、いつも神ご自身です。神の方からわたしたちへと近づいてくれるのです。人間は順風満帆の生き方をしている時には、神の介入を邪魔もの扱いにしてしまいがちですが、祈りましょう。祈りとは神の姿に勇気づけられ、また、大胆な信頼をもって心を開き神にすべてを委ねることです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第16主日:イエスを「もてなす」ために〉〉〉第一歩は耳を傾けること
今日の二人の行動から見えることは、「神を愛する」第一歩は、神の言葉に耳を傾けること、心をイエスの言葉へ向けることではないかと、・・。救いは「聞く」ことから始まります。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第15主日:「隣人」はその時、その時の出会いで新たに作られていく
イエスは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と指摘されますが、隣人はすでにその範囲が決まっているのではなく、その時、その時の出会いで新たに作られていくのです。まずは自分が「隣人」になるのです。自らを開き、新たなコミュニケーションのゆえに出来上がっていくのです。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第14主日:宣教=神からの救いが満ちわたるように=シャローム
「この家に平和があるように」と祈るのは、単なる「家内安全、無病息災」を祈るためではなく、むしろ、「神からの救いが満ちるように」と祈るためです。このような平和をもたらす力は、人間が生み出せるものではなく、神が与えてくれるものでなければ不可能です。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 聖ペトロ 聖パウロ使徒:自らをよく知って、霊の導きに気づきましょう
両使徒はそれぞれに託された使命を果たし、イエスの栄光を讃え、人々に福音を伝えました。二人に共通するのは、イエスへの信仰が深く強いこと、ことに対して熱心で一生懸命であること、何よりも自らの弱さをよく知っていたのではないかと思われます。
