『年間第28主日』の聖書と説教はこちら

カトリック教会の日曜日の説教

カトリック教会の日曜日のミサで朗読される三番目の聖書(福音書)を毎週木曜日の夕方更新。2017年からは第1朗読、第2朗読の掲載も始めました。ページでは主日(日曜日のこと)ごとにそれぞれの福音書に基づいた説教へのリンクもあります。また3年周期のA年、B年、C年を簡単に閲覧できるように工夫しています。

2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第28主日:神とのより真実な交わりと出会いに向けられますように

神は一人ひとりに声をかけ、準備が整った宴会の席に招いてくれます。復活したイエスがもたらした救いに招かれたことを知ったわたしたちは、その招きに対する感謝と、それにふさわしく生きたいと望む悔い改めと希望を「婚礼の衣服」として身にまといます。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第27主日:その時の自分のありのままを打ち明け、神にすがりましょう

人間が自分の力で醜さを駆除することには限界があります。だから「神の平和」にすがるより道がないのです。わたしたちは、根本的には、人との交わりの中で「わたしらしく」なり、「平和」を愛する存在です。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第26主日:「後悔する」感情だけでなく「考え直す」行動まで進めたい

わたしたちの欲求がいろいろあって、それに幻惑されるときが訓練の場です。目先の幸福、楽しみに、すっかりひかれてしまうのか、どうか。権勢欲、名誉欲、虚栄心に動かされて生きるのか、どうか。闘いの場、訓練の場です。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第25主日:「わたし」の目が「報酬」から「恵み」へと向けられるように

今日の福音書では、早朝から働いた者にも、一時間しか働かなった者にも同じ一デナリオンをぶどう園の主人は払ったのです。これは人間の常識をはるかに超えた神の憐れみの姿。神は罪びとにも命を与えようと望まれる方なのです。それは、イエスの受難と死によって恵みとして贈られます。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第24主日:神に出会った者は、「心から赦す」者になるよう招かれている

今日の福音書から言えることは、「赦し」とは、今にも断ち切れようとしているかかわりの回復です。したがって、本当の損害、被害というのは、物質的なそれではなく、兄弟姉妹、仲間との交わりが損なわれることではないでしょうか?
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第23主日:一人も救いから漏れないように!「忠告」は神の光にさらすこと

神はわたしたちの滅びを望みません。わたしたちは、罪を犯した仲間には、心にかける神の思いを知らせ、語らなければいけないのです。その目的は、非難するため、中傷するためではなく、仲間を得るためです。滅ぼしてはいけないのです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第22主日:「わたし」がイエスに近づいたきっかけ、動機はなに?

イエスは、今のわたしたちにもおっしゃっておられます。「引き下がれ」と。時々、いや、頻繁にでしょうか、「わたしの前に立っていませんか」、こうおっしゃっていらっしゃるように聞こえて、・・。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第21主日:強さと弱さのいり混じった今の「わたし」の上に信仰がある

わたしたちは、イエスを見たことも話したこともありません。なのに、「信じている」のです。それは、イエスの正体が見えては消え、消えては見えることを繰り返しながら培われてきたもの。こうした強さと弱さのいり混じった今の「わたし」の上に信仰があり、そして、それは神の恵みに支えられているのです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第20主日:イエス時代の律法主義と現代の制度中心主義は似てる?

規則は社会においては大事です。でも、その中で生きているのは、あくまでも「人」です。何もかも一緒くたにして、「人」を追い込み、締め上げてしまうのもどうでしょうか。! 他者を「わたし」自身の内側にある「法律」で裁いていないでしょうか?
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第19主日:わたしが助けを求めて叫べば、イエスはいつもそこに…

ペトロは、「イエスのもとへ行きたい」と考える一方で、「強い風に気づいて怖くなる」という別の思いを持ちました。こうした現象は、わたしたちの日常でもよくある体験ではないでしょうか。その時、わたしたちはどちらの状態を選択しているでしょう。言葉が持つ二重性、その豊かさをしっかりと捉えたいものです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第18主日:イエスに繋がらなければ、わたしたちは無力です

弟子たちは、イエス亡き後、教会の指導者となる人々です。でも、イエスなしでは何もできない無力なのです。彼らが「教会の指導」として意味をもつのは、彼らがいつもイエスを見つめ、イエスの心と一つになるときです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第17主日:時代とともにキリストのメッセージを伝える努力と工夫を

時代の流れとともに、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が、一層、求められているように思います。努力と工夫の中で、宝であり、真珠であるキリストを伝えるとき、この世にもさらなる喜び、平和があふれることでしょう。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第16主日:イエスは、今もなお、「わたし」に向けて語り続けます

こういう言い方はふさわしくないかもしれないですが、宣教することは、いわば、「煽る」ことではないかと。「人の感情(心)や行動を促す」という意味で、一人ひとりをイエスの方へと押しやっていくのです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第15主日:自分の力、居場所に気づきましょう。宣教はそこから

今日のたとえ話は、福音の言葉(種)が、いかに豊かで強い生命力を持っていても、それを受け取る人(土地)の心の状態があまりにも貧しいと、その種(み言葉)はその人の中では生かされていかないということを示しています。わたしたちは神から選ばれ、実は、それぞれに「適材適所」に置かれているのではないでしょうか。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第14主日:わたしたち一人ひとりの重荷、労苦を一緒に背負ってくれるイエス

きょうのイエスは「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と呼びかけられます。わたしたちと異なって、イエスはわたしたち一人ひとりを相手に、まことに愛する心があるということです。その上、わたしたち一人ひとりの重荷、労苦等を解決してくれる力もお持ちだといういことです。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第13主日:イエスの教えは、常識を超えたところに生きる

「わたしらしさ」が「イエス・キリストらしさ」に近づくこと、これがわたしたち信仰者の道しるべであるといえないでしょうか。それが常識外れと言われても・・・否、実は常識を超えているのです。「イエスらしく」なっていくことは、すべての人に対して通用する人になることでもあります。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第12主日:今の時代に、キリスト者に「求められるもの」は何?

今日の福音で気づかされたのは、わたしたちが「信仰者」として生き、信者共同体の中で生活していながら、キリスト者らしくなっているでしょうか、と自問自答させられたということです。キリスト者として今の時代に「求められるもの」をしっかりと見極め、確認できているでしょうか。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第11主日:イエスの目はどこを、何を見ているのでしょうか

今の時代、現代ならではの苦しみ、貧しさ、疲れ果てた姿の原因はさまざまでしょうが、イエスの時代においても、同じような環境に晒された人々はいました。イエスの目は、表だけの観察ではなく、表は普段と変わらぬように見えても、その奥に潜む人間の悲しい姿を見つめていたのではないでしょうか。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

キリストの聖体:わたしたちは大勢でも一つ、皆が一つのパンを分けて食べる

人が育つための「肥し」になっているのは食べ物であり、飲み物であり、励ましの言葉であったり、他者からの援助の働き・手助けであったりします。敢えて言うまでもないことですが、わたしたちの育ちには、心の育ち、体の育ちがあります。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

三位一体:信じて近づこう!わたしたちの思いと能力をはるかに超えた神の心

三位一体とは神の方からわたしたちに近づき示され、明らかになった真理。そこは人間の「欲」が行きかう隙間もないほどに神の愛で満たされているのです。神の心を受け止め信じる歩みを続けましょう。
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