年間第16主日

日曜日の聖書

年間第16主日:イエスは言われた「人里離れた所でしばらく休むがよい」

年間第16主日(B年)の聖書=マルコ6・30~34 使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。
2018年/B年説教=神への道標

年間第16主日:「人里離れたところ」そこは活動の始まりの場

人間社会の具体的な施策の背後には、いつもそれを導く「神」がいることを心し、教育の世界で、その他の世界でわたしの「個」を生かしていけるようにあり続けたいです。そのためにも、思う存分休むことは、活動の一部でしょう。
日曜日の聖書

年間第16主日:両方とも育つままにし、刈り入れの時に仕分けて毒麦は焼くために束にする。

年間第16主日(A年)の福音(マタイ13・24~43) イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第16主日:外見でなく、人の内側に隠れて生きているその人の心に注目しよう

外見で人を裁かず、むしろ「わたし」自身がイエスさまと出会えているかどうか、じっくりと見つめ、共に温かい雰囲気作りができれば、刈り取る実りの時期に、みんなで喜び合えます。そのための助け合いを求めて生きましょう。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第16主日:大事なことは、神の「お蔭」を感じているか否かです

ひとが「有頂天」になるのは、物事の成功の力を自分の力に帰すからでしょう。自分の功績にしたくなるからです。成功が続けば、人は本当の「自分」を見失いがちになるものです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第16主日:神が一番喜ぶことは、愛にあふれたおもてなしです

マルタに愛がなかったということではなく、その愛の心で、マリアの見えない心の世界を、みつめてあげることではなかったのかということでしょうか。
日曜日の聖書

年間第16主日:必要なことはただ一つだけだ。マリアは良い方を選んだ。

年間第16主日(C年)の福音=ルカ10・38~42 〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第16主日:神は「憐れみと愛にあふれた」活動を評価される

年間第16主日(C年)の説教=ルカ10.38~422013年7月21日   何の理由も無く、いきなり「君はなんて無駄なことしているの」といわれますと、正直言って、ムカッときてしまいます。自分がされるとそうなんですが、同じようなことを、自分が...
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第16主日:忍耐強く待ち、ともに育ち、すべての判断は神に任せる

わたしたちの共同体も、よい人も、いい加減な人もともに育ち、そして、少しずつでも神が望まれるファミリー共同体を、毒麦を抱え込みながら、成長して生きましょう。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第16主日:裁きは神の領域、毒麦の話は人を裁くことの危険性

人を批判するよりも、わたしたち一人ひとりがイエスさまとの出会いができるように祈りあい、また、お互いの弱さや過ちを背負いあっていくことができるのが一番です。毒麦の話は、このことを訴えているようです。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第16主日:心の「ガソリン・スタンド」に立ち寄りましょう

真の使徒職は、原点がその人個人の喜びにあるのではなく、神の深みに触れるところにあります。何物にも邪魔されないで神との出会いが実現するように、人里離れた所に誘われたのです。