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年間第16主日

2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

年間第16主日:毒麦の話は外見で評価し、裁いてしまいがちな人間への警鐘

毒麦のたとえは、いわゆる「悔い改め」に気づく時間を、わたしたちに与えてくださっているのです。同時にこれは、外見で簡単に人を裁くな、それは神の領域の世界である、と言われているのです。自分の「はかり」ほど身勝手で、不安定で不確実なものはありません。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第16主日:最高の”おもてなし”とは?価値あるものはただひとつ

相手が一番喜ぶであろう「おもてなし」は何でしょうか。粗相がないようにと配慮しても、完璧はないかもしれません。それでも、肝心な点はぬかしたくないですね。相手が大事な人であればあるほど・・・。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

年間第16主日:神の思いと導きにあやかる「わたしの時」を見つけたい

車にガソリンを入れるステーションがあるように、エネルギー補給のためにわたしたち人間も中休みする必要があります。要は、そのタイミングです。もともとの養い主である神の思いに触れ、その導きをいただける「わたしの時」を見つけるのが大事です。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

年間第16主日:非難するよりも、忍耐のうちに互いの弱さを背負い合う

イエスは当時の農耕作業を参考に、自分の目で判断した毒麦を抜こうとして、よい麦までも抜いてしまう危険性を示したかったようです。自信のある人は熱心さのあまり、本人も気づかないままに、自分の枠の中で、自分のはかりで他人の言動を推し量り、指摘し続け、非難してしまいがちになります。
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

年間第16主日:必要なことはただ一つ。それは相手を慮る「愛」の心

「必要なことはただ一つ」とおっしゃるのは、マリアがどうしてそのような態度に出たのか、マルタに、そのことを思いやってあげる温かさ「愛」が欠けていたと、イエスは言われたのでしょう。日常、同じ屋根の下で生活し、同じ職場で仕事をし、地域社会で奉仕している人々の心のうちを慮ってあげることは、私たちすべての者にとって、大事なことではないでしょうか。
2018年/B年説教=神への道標

年間第16主日:「人里離れたところ」そこは活動の始まりの場

人間社会の具体的な施策の背後には、いつもそれを導く「神」がいることを心し、教育の世界で、その他の世界でわたしの「個」を生かしていけるようにあり続けたいです。そのためにも、思う存分休むことは、活動の一部でしょう。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第16主日:外見でなく、人の内側に隠れて生きているその人の心に注目しよう

外見で人を裁かず、むしろ「わたし」自身がイエスさまと出会えているかどうか、じっくりと見つめ、共に温かい雰囲気作りができれば、刈り取る実りの時期に、みんなで喜び合えます。そのための助け合いを求めて生きましょう。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第16主日:大事なことは、神の「お蔭」を感じているか否かです

ひとが「有頂天」になるのは、物事の成功の力を自分の力に帰すからでしょう。自分の功績にしたくなるからです。成功が続けば、人は本当の「自分」を見失いがちになるものです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第16主日:神が一番喜ぶことは、愛にあふれたおもてなしです

マルタに愛がなかったということではなく、その愛の心で、マリアの見えない心の世界を、みつめてあげることではなかったのかということでしょうか。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第16主日:神は「憐れみと愛にあふれた」活動を評価される

年間第16主日(C年)の説教=ルカ10.38~422013年7月21日   何の理由も無く、いきなり「君はなんて無駄なことしているの」といわれますと、正直言って、ムカッときてしまいます。自分がされるとそうなんですが、同じようなことを、自分が...
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第16主日:忍耐強く待ち、ともに育ち、すべての判断は神に任せる

わたしたちの共同体も、よい人も、いい加減な人もともに育ち、そして、少しずつでも神が望まれるファミリー共同体を、毒麦を抱え込みながら、成長して生きましょう。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第16主日:裁きは神の領域、毒麦の話は人を裁くことの危険性

人を批判するよりも、わたしたち一人ひとりがイエスさまとの出会いができるように祈りあい、また、お互いの弱さや過ちを背負いあっていくことができるのが一番です。毒麦の話は、このことを訴えているようです。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第16主日:心の「ガソリン・スタンド」に立ち寄りましょう

真の使徒職は、原点がその人個人の喜びにあるのではなく、神の深みに触れるところにあります。何物にも邪魔されないで神との出会いが実現するように、人里離れた所に誘われたのです。
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