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年間第16主日:非難するよりも、忍耐のうちに互いの弱さを背負い合う

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年間第16主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第16主日(A年)の説教=マタイ13・24~43

2020年7月19日

今は「新型コロナウイルス」を抜きにしては、事が説明できない感じの話が次から次へと出てきます。言うまでもないことですが、危機感の連続で、決してありえないことですが「危機慣れ」しないようにと思ったりしています。

コロナ抜きには語れないことが増えてきた

「緊急事態宣言解除」「東京アラート解除」後に見られるように、宣言が解除になったからと言って、安全が確保されているかと言いますと、当然のことながら、その保証はありません。「宣言解除」ということになっても、緊張感をもって解除後を過ごしている方がほとんどでしょう。でも、気分的には「解放された」実感が強く、安易さを求めてしまうものです。「危機感慣れ病」とまでは言えないでしょうが、その類に属する「症候群」ではないかと思ってしまいます。人間、何かに束縛されるのはつらいですからね。

こうした長い危機的時間を過ごしているわたしたちですが、だからこそ、賢明な安全な策を選択する術も持ち合わせています。

産科の母親学級も「オンライン」実施とか

「コロナ産科が母親学級中止」「オンラインで学ぶ機会確保」という見出しの報道を目にしました。(南日本新聞2020年7月12日朝刊)

新型コロナウイルス感染症の拡大を受け、鹿児島県内の産科の多くが母親学級を中止しています。そのような中にあって、「妊婦が出産や育児について学ぶ機会を確保し、安心して出産を迎えてほしい」との思いを添えて、オンライン開催や動画配信をしている病院や助産師グループがあります。

「赤ちゃんは体を回転させながら出てきます」。鹿児島市の柿木病院の助産師がパソコンに向かい、胎児の人形を使って出産の仕組みを説明します。同病院は5月から、対面で行っていた母親学級をウェブ会議システム「Zoom」を使った方法に変更。新型コロナの感染リスクを軽減するためです。同病院を受診する妊婦を対象に、4種類の講座を毎月1回ずつ開催しています。一回当たりの受講者数は、10~20人で、来院して対面で実施していたときと同程度だといいます。

自分だけでは不十分!客観的考えも参考に

講座の内容は、妊婦が妊娠中の健康管理や出産準備、産後の生活について学びます。正しい知識をつけて安心して出産に臨み、育児を始めるために重要です。6月に第一子を里帰り出産した渡邉弥尋(やひろ)さん(31歳)は「受講せずに出産を迎えると思っていたのでありがたかった」と話しています。県外にいる夫も同時に受講し「夫にも産後の大変さを理解してもらえてうれしい」と話しておられます。

有馬睦子看護師長は「コロナで妊婦の不安は増していると思うが、できるだけ対面の学級と同じ学びを提供し、安心して出産してほしい」と話しています。

出産の大変さは、個々人によって違いがあるということを聞いたことがあります。いわゆる「自分のはかり」で他者のケースを見ることができないということでしょうね。そこで、産科病院の講座は客観的な立場に立って示される内容だと思いますので、大きな力になること間違いないでしょう。

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今日の福音朗読は毒麦のたとえ話です。今日の話の毒麦は、成長の初めの段階では、本物の麦との区別がしにくく、見た目では見分けがつかないということです。イエスはこのたとえ話で一体何をおっしゃりたいのでしょうか。

人は生涯にわたって色々な人と関わるが…

わたしたち人間は、一人でいたいこともあるでしょうが、どこかで他者を求めています。誰かといないと、しかも、信頼できる人、仲間と一緒にいることによって、「わたし」を出すことができますし、さらなる成長を遂げることができます。安心できるのです。赤ちゃんの育ちを見ますと、まさに、合点がいくのではないでしょうか。赤ちゃんは取り巻く大人の手伝い、お世話によって大きくなります。しかし、集まる大人の中にはいろんな人たちがいます。だからこそ、有り難くない話なんですが、中には邪魔になる人だっているときがあります。

イエスに近づいてくる人たちの中にも、いろいろな人たちがいたでしょう。近づいてくる動機にもそれぞれ異なったものがあったことでしょう。社会の底辺で苦労している人、逆に地位があって、さらにお金持ちの人、社会的に嫌がられている人、その逆に模範的な人など様々です。さらに、イエスを取り巻く人の中には、イエス自信を、したがって、そのメッセージの真実を見抜いていた人たちもいたのでしょうか。

真偽の見極めは困難、忍耐の対応こそ重要

いずれにしても、その人の外側からは、内側の隠された中身をうかがい知ることはできません。つまり、本当にイエスを求めているのか否か、その真偽を見極めることは無理です。

今日の福音でイエスは、誰かが熱心さのあまり自分の目で判断した毒麦を抜こうとして、よい麦までも抜いてしまう危険性があることを、当時の農耕作業を参考に示したかったのではないでしょうか。自信のある人は、どうしても熱心さのあまり、本人も気づかないままに、自分の枠の中で、自分のはかりで他人の言動を推し量り、指摘し続け、非難してしまいがちになります。それによって、その人の教会への出入りをしにくくしてしまうのです。

非難するよりも、忍耐のうちに互いの弱さ足りなさを背負い合っていく心、生き方を目指すべきではないんでしょうか。

「わたし」は信仰者としての成長を心底、望んでいるんでしょうか。それは、「人として」の成長でもあります。その始まりが一人ひとりのいのちの誕生です。

 

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