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年間第16主日:「人里離れたところ」そこは活動の始まりの場

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第16主日(B年)の聖書=マルコ6・30~34

2018年7月22日

2020年に実施される新学習指導要領で小学校5~6年生の英語が教化される前に、京都市の小学校で英語教育が本格化しています。(京都新聞 、2018年7月12日朝刊)

小学生の英語教科化、京都市は全国より3年早く

京都市では全国より3年早く2008年度から導入されています。一方で、不慣れな教員への対策や負担軽減が課題として浮かび上がっています。正式な教科となることで、教員は外国語活動の中心だった「聞く・話す」に加え、「読む・書く」を含めた4技能を教えることになり、児童への成績評価も必要となります。コマ数と教える内容が大幅に増え、長時間労働が指摘される教員の負担がさらに増えることも予想されます。

国際都市であることとグローバル化を見据えて

これに対して京都市教委学校指導課は「京都が国際都市であることとグローバル化を見据えると、先んじて進めることが子どものためになる」と、英語教育に力を入れる理由を説明しています。さらに付け加えます。「4技能の力をまんべんなく付け、小中の接続がうまくいくように丁寧な指導をしていきたい。そのために、あらゆる面で現場への支援を強めていく」としています。

また、文部科学省が定めている授業数に関しても、国の基準を上回るコマ数を確保し、ひいては、指導要領にはないそうですが、20年度からは小学校1~2年生に年10~15コマの外国語活動を、京都市教委は導入するようです。

「教育」は、何といいましても「人としての自己の成長、発展」を目指し、その実りとして、他者の役に立ち、社会の安定した営みに貢献するものになっていくのではないでしょうか。やはり「個」の充実、豊かさが、まず求められていくものだと思います。個々人によって考え方には違いがあることでしょう。それは、「個」がそれぞれに成長し、「個」の中に、主義主張が育っている証といえます。

「働き方改革」推進の一方で、教師の負担増も?

人には違った感性が育っていると同時に、同じような感性だって持ち合わせています。いわゆる、共鳴し合える、共感し合える感性も持ち合わせています。「教育」の世界に、この両者を満足、発展させるゆとりと力があるでしょうか。あって欲しいです。それ故に、現場にいて子どもたちと接する教師の働きは大変であろうという気がします。

「働きかた改革」という言葉は魅力的ですが、実がともなった内容になって実施されるのでしょうか。教育界の現場ではかえって繁雑になり、やることが多すぎるといわれているように、教師の心身の疲労、そこからくる病が、始まる前から心配になってきます。この心配は、日本人の悪い癖かも知れませんが、教育の「果実」はずっと先の話です。1~2年で出るようなものではないでしょう。だからこそ、教育の方法論だけでなく、人間(子どもたち)の生態学的な視点も大事になってくるのではないかと思っています。すなわち、大人の視点からだけでなく、育ち盛りの子どもたちの視点も配慮されるべきではないかと。教育は奥深いです。

次のステップに進むためには休憩も必要

したがって、働きっぱなしではなく、「休憩」が必要です。熱中症に、中でも熱射病にならないためにも、次のステップに進むために休むのです。新しいことばかりを追いかけても、さらに、新たな苦労、重荷を抱えこんでしまう結果になりかねません。一端、今までの荷を下ろすのです。

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イエスさまは言われます。「人里離れたところで休みなさい」と。どのような状況下で言われたのかといいますと、使徒たちが宣教から戻り、意気揚々と帰って来た時の彼らの様子を見て言われた言葉でした。要するに、彼らが期待した以上の宣教の実りを治めることができた感動、喜びがあったのではないでしょうか。宣教する、という働きの喜びが大きかったのだと思います。

弟子たちが成功に酔いしれてしまうことを危惧

いわゆる、自分たちの活動の成功に酔いしれてしまっていたのです。人々からも歓迎され、それ故に、人々がその周りに押し寄せてきたのでしょう。働くことの喜びはいいとしても、彼らが「己を見失わないか」という危惧の念がイエスさまの心をよぎったのでしょうか。だとすれば、使徒たちは、このままでは同じことの繰り返しになってしまい、心のこもった宣教活動は期待できなくなります。

「宣教の中心には神がいる」ことに心を向けよ

そこで「あなた方だけで人里離れたところに行き、そこでしばらく休みなさい」と、勧告なさいます。「人里離れたところ」に行くということは、宣教の中心におられる神に心を向けなさいということです。日常の現実が後ろに退き、神への思いが、確信が豊かに養われる「場」なのです、とイエスさまは言われます。その思いをひっさげて、今生きている現場に戻り、新たな宣教活動へと駆り立てられます。

人間社会の具体的な施策の背後には、いつもそれを導く「神」がいることを心し、教育の世界で、その他の世界でわたしの「個」を生かしていけるようにあり続けたいです。そのためにも、思う存分休むことは、活動の一部でしょう。

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