年間第15主日:宣教するとは、イエスの生き方を示し、語り継ぐこと

「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第15主日(B年)の説教=マルコ6・7~13

2018年7月15日

「オウム7人死刑執行」「地下鉄サリンなど関与」(讀賣新聞大阪本社、2018年3月7日朝刊)

オウム事件にあらためて身震いしながら

この凄まじい事件は、わたしにとって、震え上がるような気持ちになった記憶があります。わたし自身も、その日、日比谷線の電車に乗り、成田空港に向かっていたからです。成田に着いて、出発便までの待ち時間に、テレビを見て身震いしたのです。あと2~3便遅れた電車に乗っていれば、・・。

 

『1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ、以下営団地下鉄)、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。

営団地下鉄では事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した。運転再開後はほぼ所定どおりのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。

1995年(平成7年)3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。これは村井秀夫と井上嘉浩が乗客数及び官公庁の通勤のピークが8時頃であると考えた為である。各実行犯は、500〜600gの溶液(内サリンは35%程度)の袋詰めを2つ、林泰男だけは3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いて下車。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。営団地下鉄はラッシュ時には非常に混雑するため、車両間を移動することは大変困難であった。

この事件は麻原彰晃が首謀、村井秀夫が総括指揮を担当、そして井上嘉浩が現場調整役を務めた。サリンは土谷正実・遠藤誠一・中川智正が生成したものが使われた。』

(ウィキペディアフリー百科事典)

ついに、あの忘れもしない事件の中心人物だった、かつての優秀な若者たちに刑が執行されました。その中心にいたのが麻原彰晃氏。宗教を広げ、信仰を浸透させるために、いわゆる「宣教のために」と、選りすぐられた若者を自分の身近に置いていったのです。

救いのために人を殺める信仰はあり得ない

あの若者たちも、初めの動機は純粋に救われたい、やすらぎを得たい、癒されたいとの願いがあったのではないでしょうか。そう思いたいです。しかし、残念なことに、それが「武装化」集団へと走ってしまったのです。

「救いのために人を殺めることがあってもいい」という教えは、「信仰する」という視点からみますと納得しかねます。あの頃の「優秀な」若者が、どうしてこのようなことに走ってしまったのでしょうか。一人の死刑囚は語っています。「現実からの逃避」がその背景にあったと感じていると。

イエスは12人を自分のそばに呼び寄せた

今日の福音では、弟子たちの心構えが語られています。イエスさまは、12人を呼び寄せたとあります。ご自分の近くに呼ばれたのです。その後に続く言葉として「宣教のために」と言われます。つまり、後に弟子たちを宣教に派遣することを考えて、ご自分のそばに弟子たちを呼ばれたのでした。それは何を意味するのでしょうか。イエスさまと生活を共にし、その生き方を学び、命を共有することの必要性、大切さを、弟子たち一人ひとりが自分のものにすることだったのでしょう。事実、イエスさまはご自分の宣教の姿を弟子たちに見せ、示し、ご自分の説教、語りについて、詳しく弟子たちに説明しておられます。特に、たとえ話については、幾度となく民衆とは別に、語り加えています。

年間第15主日:イエスは12人を呼び寄せ、2人ずつ組にして遣わされた
年間第15主日(B年)の聖書=マルコ6・7~13 〔その時、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、

このことから言えることは、「宣教する」とは「イエスさまご自身を伝えること、語ること」であると言えるでしょう。イデオロギー、主義を語り継ぐことではないのです。イエスさまのそばにいることは、宣教のための最強の教育であったということができます。

イエスが弟子たちに教えた心構えとは・・・

今日の福音では、弟子たちに厳しい条件を要求なさいます。宣教は命を懸けた業であるということを前もって体験し、知ってもらうことが目指されています。別の言い方をしますと、ひたすら神に頼り、神に懸けることを通して、イエスさまの証し人になっていくことに本物を見るのです。

イエスさまは自分の主義主張にこだわるのではなく、おん父のみ心を大事になさいました。「福音」という表現の中には、人間にとってマイナスになる内容は入って来ないのです。ひたすら、人間の救いがその中心に置かれているのです。そのために、神は心を砕いてくださるのです。これが本来の神と人間との関係でしょう。わたしたちはそれを「信じて仰ぐ」(信仰)のです。

わたしたちの生は、身近な隣人に向かい、その奥に神が待っておられます。信仰は自己顕示欲の満足にあるのではなく、神への回帰です。本来の「自分」を今、取り戻しましょう。

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