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年間第15主日:お互いが安心でき、やすらぎを得られる関わりを広げたい

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年間第15主日(C年)の説教=ルカ10.25~37

2016年7月10日

神のぬくもり誰にでも忘れられない時、事、人などがあるのではないでしょうか。自分の人生の転換期となった出来事、ある人との出会い等、大抵の場合、自分自身に生きるための大きな力をいただきます。

特に海外で生活していた時、周りには、言葉も分からず、知り合いもいない状況で、何かが起こると不安になってしまいがちになります。ところが、そのような時に知り合いとか家族から一個の荷物が届きます。それだけでほっとするんですね。「藁をもつかむ」心境になっているのでしょうか。一個の荷物を通して、家族の、知人の温かみを感じ取っているんだろうと思います。同じような経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

今日の福音書は、「善いサマリア人」のたとえ話として知られています。強盗に襲われ、半死半生のまま放置されていた人にとって、何と不安な状態にあったのだろうかと思います。

そこに登場する二人の人物は、神に奉仕することを使命としている人々です。神の掟の何たるかを知っているベテランで、分かりすぎるほどわかっています。だからこそ、実は、安心できる人が通りかかったのに、なぜか、彼らはその安心と癒しを強盗に襲われた人に施さないのです。日頃は「専門家」として自負している彼らの心に打撃を与えるために、イエスさま流の人物を登場させます。「サマリア人」です。

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彼は丁寧に傷の手当てをし、治療費と宿代も支払い、まさに、困っている襲われた人にとって最高の安らぎ人となりました。当時の人々からしますと、サマリア人は種族としてはアッシリアから移住してきた人々との混血児で、ユダヤ人からは異端者とみなされていました。そのような人が登場するということは、イエスさまの相当な皮肉が込められているような気がします。同時に、ユダヤの世界に対して鋭い批判も込められています。

ユダヤの世界では模範生として尊敬されていた人たちが持っていなかったものを、このサマリア人は持っているとイエスさまは断言なさいます。ごく素朴な人としての心情「あわれに思って」という心の動きです。人として普通に持ち合わせている感性です。努力しなければ出てこない感性でもないでしょう。

日頃は人を感動させる言葉を発していても、愛情がこもっていないと、その感動は打ち上げ花火で終わってしまいます。水の波紋のように広く、あざやかに繋がっていかないのです。

お互いが安心でき、やすらぎを得られる互いの関わりを広げたいです。そこにこそ真の平和が生まれ、心からの奉仕が交換できます。一期一会の心で・・。

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