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年間第15主日:頭では理解しながらも、実践しない信仰者への警鐘

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年間第15主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第15主日(C年)の説教=ルカ10・25~37

2022年7月10日

いつでも受発信できる情報社会のなかで

わたしたちの周りには数えきれないほどの「情報」が飛び交っています。中には、大いに役立つものがあれば、まったくもって有害と思われるものなど、自由に乱れ飛んでいます。それが、以前は公的マスコミを通して公開され、人々の知るところとなっていましたが、今や、個人レベルで、一人ひとりが発信者になって、それぞれの価値観の上に立って公開された情報が、右往左往しているのです。そして、もちろんのこと、誰でもその情報を入手でき、意見のやり取りまでもができる時代になっています。

便利になれば、それだけそのツールを悪用する人も出てきます。いつも思います。その悪用のために費やしている力を、いいことの方に発揮してくれればいいのに、・・と。

情報源の発信者にとっては、自分から発出する情報そのものに、もともとは何かの思いを込めているのではないでしょうか。表現のあり方にも工夫が凝らされているのが一般的ではないのかと思っていますが、・・。だからこそ、その人独特の言い回しが、言葉そのもの(語彙)が登場してきます。また、季節、時代背景なども影響してくるでしょうね。

東京都は育児休業の愛称を「育業」と発表

先月29日、東京都は都庁で「育休取得応援サミット」を開催し、育児休業の愛称を「育業」と発表しました。(南日本新聞2022年6月30日朝刊) 「仕事を休む」といった後ろめたいイメージを一新するのが狙いだとか。小池都知事は「育児のために仕事を休むのではなく、大事な仕事である育児に取り組むとマインドチェンジを進める。子育てって業なの?とか議論もあると思う。そのことで、みんなの理解が広まれば」と述べています。

育児・子育てについて「子育てって業なの?とか議論もあると思う・・理解が広まれば・・」というのではなく、それは「大事な仕事」なのではないでしょうか。お金の収入はないけれども、人として、親として「生きている」充実感を得ることができます。それが新たなより上にある仕事への活力剤にもなっていきます。

ソニーの前身である東京通信工業を創立された井深大(いぶか・まさる)さん(1997年没)の言葉を思い出します。「出産は女性にとって最大の仕事である、と言われます。しかし私に言わせれば、子どもを産んだ後にこそ、母親にとってはもっと大きな仕事が待っているのです。かりに専門家になるにしても、育児さえしっかりできない人に立派な仕事ができるはずはないと思うのです」と。(井深大著「0歳からの母親作戦」より) 

理解の広まりに加えて深まることを期待

こうしたニュース、情報は、気持ちを高めるだけのものとしてではなく、自分たちの人生に直接関係してくるものではないかと思うんです。もちろん、人によってその捉え方には温度差があるでしょう。でも、子どもが生まれ、育ち、社会の一員としてより成長し、その実りとして社会の、より多くの人びとの役に立っていくこと、そこに、一人ひとりが生きていることの意義があるように思うからです。「仕事する」とはそのようなことではないんでしょうか。「情けは人のためならず」以上であると感じています。

「育児」について、これまでの否定的な固定観念を持って行動している人が多いからこそ、東京都はこうした策に出たのでしょうが、これはあくまでも「きっかけ」でしかないと思います。「理解が広まれば」だけでなく、「理解が深まっていく」ことが大事かなと感じています。

「善きサマリ人」の話が教えることとは

今日の福音書では、皆によく知られている「善きサマリア人」の話が朗読されます。一人の律法の専門家がイエスに質問するのです。「わたしの隣人とは誰ですか」と。それに答えて語られた話の中に、サマリア人が登場します。

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826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

サマリア人とは、種族的にはイスラエル人と、アッシリアから移住してきた異邦人との混血種族です。偶像礼拝に陥り、異邦の世界にふれているので、ユダヤ人からは異端者とみなされ軽蔑されていました。

しかしイエスは言いたいのです。祭司、レビ人、律法学者たちが失ってしまったものが、サマリア人にはあるのです、と。それというのは、やさしい心です。みじめな状態に置かれている人に対する心です。それは、素朴であって、でも、ごく自然にあふれてくる心からの情であり、温かさです。人が持ち合わせている感性であるといえるのではないでしょうか。別の言い方をすれば、惨めな状態にある人に遭遇して、見て見ぬふりができないのです。

「行って、あなたも同じようにしなさい」

そのサマリア人をたとえの中に登場させたということは、イエスの強烈な皮肉が込められているといえるでしょう。つまり、現在のわたしたちに対しても、頭では理解しながらも、実践しない信仰者への警鐘であります。

追いはぎに襲われた人を介抱した人は、サマリア人、ユダヤ人の区別を超えています。目の前に困っている人、苦しんでいる人がいるから手を差し伸べたのです。

それに比べて、祭司、レビ人、律法学者はどうかといえば、教えの奥義や知識、或いは、崇高な言葉表現は知っていても、肝心なやさしい心が欠落しています。傷ついた人を前にしても、そのかかわりを避け、結局は道の反対側を通り抜けてしまいます。彼らがかかわりを避けた動機、原因は何だったのでしょうか。どのような理由があったにせよ、命にかかわる人の叫びが彼らの心に響かなかったのでした。

単に情報を取得し知り得たとしても、そこにあるメッセージに気づかない限り、「わたし」の成長には何の役にも立たないのです。さらに、そのメッセージが「わたし」に向けられたものでもあるという現実味が、実感がなければ、実践に向かうこともないでしょう。単なる情報、知識で終わり、深まりません。残念ですが、・・。

なぜなら、「わたし」の成長は、日々を生きる中で出会う人、出来事を通して得られることばかりだからです。それらの出会いは、なくてはならないよりよき人間を目指す「わたしの仕事」とはいえないでしょうか。

「では、行って、あなたも同じようにしなさい」

 

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