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年間第17主日

2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

年間第17主日:中身や伝え方の工夫など、キリスト者側にも責任がある?

渇きが満たされないのはどうして?善意ある人々、彼ら本人だけの責任でしょか。その時代の人々が抱えている問題、また不安に対して、キリストのメッセージをいかに伝えているのか、その中身、伝え方の工夫はどうなのか、問われることがありはしないでしょうか。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第17主日:祈りとは神への叫び。神に委ね、神の働きを求めること

祈りとは、一人ひとりに目を注ぎ、手を差し伸べてくださる神に元気づけられ、信頼をもって神に心を開いて委ねることです。祈りは現実逃避ではありません。人として、神の望みを生きるために神の働きを求めるのです。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

年間第17主日:身の回りに起きる奇跡・しるしの中に何を見ますか

今もなお、わたしたちの周りで「奇跡」は起きています。その中に、己を手放す価値ある神からのメッセージを見抜けるか、読み取れるか、神との繋がりの「密」を切に願い、祈りましょう。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

年間第17主日:イエスを知らない人への、キリスト者の奉仕の中身は・・

イエスが、我が人生に決定的な変化を持つものであることに気づけば、なにがなんでも放しはしないでしょう。多くの方に気づいてもらうために、イエスを伝えるわたしたちキリスト者の奉仕と責任はどこにあるのでしょう。
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

年間第17主日:祈りは、神の考えを聞き、神の働きに我を託すこと

神は私たちが黙っていても遠くに離れていても、静かに見守り、援助の手を差し伸べようと待ち構えていらっしゃる「オヤジ」のような方なのです。こうした神の姿に元気づけられ、信頼をもってその神に委ねること、これが祈りであるとルカは強調したいのでしょう。
2018年/B年説教=神への道標

年間第17主日:「任せきる心」がイエスとの真の出会いをもたらす

今日の福音では群衆の「自分本位」が露(あらわ)にされます。イエスさまのねらいに気付くゆとりはありません。表に見えるところで終わっていて、見えないイエスさまの心の部分に届かないのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第17主日:得るために支払う準備と努力に、喜びを感じていますか?

イエスさまは得た「物」に比重を置いているのではなく、「支払いをする」ために努力してきたその生きざまに、重きを置いているのではないでしょうか。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第17主日:定かでない何かを求めている人は、周りにたくさんいる

隠されている「何か」とは、絶対的な安心感を抱きうる神に向けられている飢え渇きではないでしょうか?マスコミを使い、口コミを通して、尊い志と高い技術を兼ね備えて、イエスさまを伝えていきましょう。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第17主日:群衆はイエスさまの「ある不思議な何か」を求めています

イエスさまにとって、今日の福音の奇跡は、「しるし」でした。パンをあきるほど食べさせてくれる王ではなく、「永遠のいのちのパン(糧)」であることを示すためのものだったのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第17主日:祈る人は「負け組」だと思ったら、それは大きな誤解です

「主の祈り」は神の動きを知らせ、その豊かな愛に自分をゆだねるように、その道を開かせてくれます。自分の限界に目覚め、他者(神)への寄りかかりを尊い、大事なものにしていけますように。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第17主日:祈りは存在の限界を知り、神に委託する心で

年間第17主日(C年)の説教=ルカ11.1~132013年7月28日   年老いたご夫婦の姿が目に入りました。ご主人は歩き、その傍らには膝で歩いている(?)奥様がいらっしゃいました。その膝たるや血が滲んでいました。こうした光景は聖なる巡礼地...
2012年/B年説教=主との出会い

年間第17主日:今を満たすパンより永遠の命にいたる糧が大切

パンの奇跡は、「今」人の腹を満たすだけの力があるということを見せるのではなく、「永遠に」命のパンであることを人々に分かってもらいたいとのイエスさまの祈りがありました。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第17主日:天国に行った人はいない。だから伝える工夫が大切

わたしたちの周囲にはたくさんの善意にあふれた人々がいます。このようなカトリック信者ではない人も、何かを求めています。本人に、神に向かっているという意識はないにしても、確かに神に向かっているのです。
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