年間第17主日

日曜日の聖書

年間第17主日:人々は「この人こそ、世に来られる預言者である」と言った

年間第17主日(B年)の聖書=ヨハネ6・1~15 〔そのとき、〕イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群集が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
2018年/B年説教=神への道標

年間第17主日:「任せきる心」がイエスとの真の出会いをもたらす

今日の福音では群衆の「自分本位」が露(あらわ)にされます。イエスさまのねらいに気付くゆとりはありません。表に見えるところで終わっていて、見えないイエスさまの心の部分に届かないのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第17主日:得るために支払う準備と努力に、喜びを感じていますか?

イエスさまは得た「物」に比重を置いているのではなく、「支払いをする」ために努力してきたその生きざまに、重きを置いているのではないでしょうか。
日曜日の聖書

年間第17主日:天の国は隠されている宝にたとえられる。見つけた人は!

年間第17主日(A年)の福音(マタイ13・44~52)〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第17主日:定かでない何かを求めている人は、周りにたくさんいる

隠されている「何か」とは、絶対的な安心感を抱きうる神に向けられている飢え渇きではないでしょうか?マスコミを使い、口コミを通して、尊い志と高い技術を兼ね備えて、イエスさまを伝えていきましょう。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第17主日:群衆はイエスさまの「ある不思議な何か」を求めています

イエスさまにとって、今日の福音の奇跡は、「しるし」でした。パンをあきるほど食べさせてくれる王ではなく、「永遠のいのちのパン(糧)」であることを示すためのものだったのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第17主日:祈る人は「負け組」だと思ったら、それは大きな誤解です

「主の祈り」は神の動きを知らせ、その豊かな愛に自分をゆだねるように、その道を開かせてくれます。自分の限界に目覚め、他者(神)への寄りかかりを尊い、大事なものにしていけますように。
日曜日の聖書

年間第17主日:祈りとは?「求めなさい。そうすれば、与えられる。」

年間第17主日(C年)の福音=ルカ11.1~13 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第17主日:祈りは存在の限界を知り、神に委託する心で

年間第17主日(C年)の説教=ルカ11.1~132013年7月28日   年老いたご夫婦の姿が目に入りました。ご主人は歩き、その傍らには膝で歩いている(?)奥様がいらっしゃいました。その膝たるや血が滲んでいました。こうした光景は聖なる巡礼地...
2012年/B年説教=主との出会い

年間第17主日:今を満たすパンより永遠の命にいたる糧が大切

パンの奇跡は、「今」人の腹を満たすだけの力があるということを見せるのではなく、「永遠に」命のパンであることを人々に分かってもらいたいとのイエスさまの祈りがありました。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第17主日:天国に行った人はいない。だから伝える工夫が大切

わたしたちの周囲にはたくさんの善意にあふれた人々がいます。このようなカトリック信者ではない人も、何かを求めています。本人に、神に向かっているという意識はないにしても、確かに神に向かっているのです。