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年間第17主日:祈りとは神への叫び。神に委ね、神の働きを求めること

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年間第17主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第17主日(C年)の福音=ルカ11・1~13

2022年7月24日

祈りは現実からの逃避ではない!

かつて、わたしが中・高校生の頃でしたか、周りの同級生からよく言われたことです。「カトリック信者は、何かといえば『祈っています。お祈りするね』と言って、現実から逃げようとするよね」と。しかし、わたしは思います。本当に「みんなは心底からそういっているのか」と。本当はそうできない自分に対する怒りみたいなものが混じっているのではないかと思ったりするんです。

実際に、本人が意識している範囲では「現実からの逃避」をしているかのように見えるのかもしれませんが、意識されていないところ、自らも気づいていない心の奥では、やはり、その人自身も「神」を認識しているのではないかと思ったりします。意識上にのぼってきていないだけで、敢えて祈っていない自分を受け入れようとせず、自分を正当化しているような気がしてならないのですが、・・。これはあくまでもわたし個人の印象です。

よく「苦しい時の神頼み」と言われるように、人はその生涯の間に、苦しみ、そして、そこからくる不安感に惑わされてしまうと、その中で疲れ果ててしまいます。いつしか、苦しみから解放されるべく、祈っている、願っている自分に気づくことはないでしょうか。祈っている対象が神であろうとなかろうと。その心の動きについては誰にも気づかれることはありません。明らかに心の動きです。ですから、その動きを外に向かって否定することはできます。この心の動き自体は、実は「祈っている」姿なのではないかと思うのです。とはいっても、その時々で、一つずつ冷静に順序立てて整理することはしませんよね。

どこのお祭りにも祈りはつきもの

ところで、現実の世の中は次から次へと変化していきます。今、コロナ感染の第7波に入っているようです。やはり不自由さを感じ、不安感が募ります。

「『コロナ退散』願い込めて」伝統行事が3年ぶりに開かれるといいます。鹿児島の夏を彩る伝統行事「おぎおんさぁ」です。7月23日、24日の両日、鹿児島市の天文館一帯で開かれます。古式ゆかしいご神幸行列は3年ぶりに繁華街を練り歩き、商売繁盛と悪疫退散を願っての行事です。関係者は「再び猛威を振るう新型コロナウイルスを吹き飛ばし、笑顔で鹿児島を元気に」を合言葉に、今準備に追われているということです。(南日本新聞2022年7月18日朝刊)

また、長島町平尾地区では、各集落の出入り口にお札などがついたしめ縄が飾られています。悪霊や疫病の侵入を防ぐ「道切り」と呼ばれる習俗で、7月の川祭りの一環として受け継がれてきています。網を編んだ住民らは新型コロナウイルス収束への願いを込めてなさったということです。犬鹿倉集落の大迫政喜さん(72歳)は「コロナが収まらない今年は、特に住民の健康を願いながら作業に参加した」と言っておられます。(同上紙2022年7月19日朝刊)

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世界中のいずこにおいても、その国、地域の文化があります。その地に根付いた慣習、伝統的な祭りごと等、その時期にかなった祈願祭、奉納祭が存在します。共通して言いえることは、国民の、市民の、地域民の安心、安全、平和な日々を願っての祭りごとであるということです。このこと自体、明らかに全ての人間が共通した希望、願いを持っており、それはいつも安泰を求め、できることなら病、災害なしの日々を祈願しているといえます。人類共通の願いであり心からの祈りです。

イエスが教えた「主の祈り」とは

こうした日常は今も昔も、何ら変わることはありません。イエスの時代においても、人々は自由と解放、安心・安全を願っていたのです。そして、どのように祈ったらいいのかわからない人もたくさんいたのでしょう。その中に、イエスの弟子たちもいました。それゆえに、弟子の一人がイエスに近寄り言います。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と。

その弟子は、祈っているイエスの姿に心打たれて、自分たちも祈りたいと望み、イエスにお願いしたのです。確かに洗礼者ヨハネの祈りは古い祈り方だったのでしょうか、弟子たちは新しい祈りのあり方を願ったのではないかと推測できます。というのは、イエスの弟子たちの中には、かつてヨハネの弟子であった者が含まれていることは確かな事実だからです。(ヨハネ1章35節~37節) そこでイエスは、わたしたちが毎日のように祈っている「主の祈り」を教えられるのです。

これまでと違った新しい祈りは、冒頭からそのことをうかがわせます。マタイにはある「天にましますわれらの父よ」という呼びかけが、ルカの祈りでは欠落しているのです。この表現は重々しく荘厳さを漂わせますが、一方で、神の神々しさが際立ち、異邦人からキリスト者になった人々を対象に書かれたルカにとっては馴染まない言い方でした。ルカは、「天にましますわれらの」表現を省くことによって、神との信頼に満ちた関係を強調しようとしたのです。神はわたしたちの手の届かないところにいます方ではなく、わたしたち一人ひとりに目を注ぎ、手を差し伸べ、わたしたちの不幸に目を留めてくださる方なのです。

祈り⇒神に心を開いて委ねること

祈りとは、神のこうした姿に元気づけられ、信頼をもって神に心を開いて委ねることです。人として、神の望みを生きるために神の働きを求めるのです。その上で、「主の祈り」では人間の弱さを述べています。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と三つにまとめられています。心の深いところで醜さを持っているわたしたち、どんな試練があっても、いかに生きるかを支えてほしいと願っています。

わたしたち人間の小さな力ではどうしようもない、この現実の上にしっかりとたてば、「祈りに逃げている」なんていうことはあり得ないでしょう、と思っています。だって、すべての人にとって生きていること、それは「祈り」ですから、・・。

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