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受難の主日:いかなる時にも動揺しないイエスに、訴えましょう、甘えましょう

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受難の主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

受難の主日/枝の主日(C年)の説教=ルカ23・1~49

2022年4月10日

「惨事ストレス」ケアチームが編成されたとか

かなり以前から、なんとなく漠然と感じていたことです。特に、最近ではより頻繁にその出動回数が激しくなってきたようです。それというのは、大規模災害や事件事故、火災の悲惨な現場に駆けつける救助隊の人々のことです。言うまでもなく、自衛隊員、警察官、消防士、その他のボランティアの方々が思い出されます。

なんとなく漠然と感じていたというのは、それらの人々はなんと精神の頑強な人たちなんだろうということです。日常では体験することのない出来事、状況を見たり、触れたりするからです。実に、凄惨な現場への派遣です。時には、命が絶えてしまった人の亡骸に直に接します。また、重傷を負うた人、それも血まみれになったその顔、体に出会うと、目を覆いたくなるような時ってあるのではないでしょうか。そのような現場なのです。日頃から、南海トラフ地震などを想定した心身の訓練を重ねてきたとはいえ、いざ現場で過酷な、凄惨な現場の情景に遭遇すれば、何らかのストレスを受けてもおかしくないような気がするのです。

この度、「惨事ストレスに心のケアチーム」が編成されたといいます。彼ら救助隊のみんなが被る不眠などの惨事ストレス対策として、警視庁が新たに精神科医ら専門家を加えた「ケアチーム」を編成したのです。(南日本新聞2022年4月4日朝刊) 全国各地のブロックごとに設置して現地へ派遣する取り組みをこの4月から始めました。

惨事に対処する警察官や消防士らの支援を期待

この制度こそ、確実に惨事ストレスを受けている人を助ける制度として機能してほしいです。やはり「人」なのです。人に向かうべきです。惨事ストレスを受けた人は不眠などの症状が出て、長引けば心的外傷後ストレス障害(PTSD)につながる恐れがあります。2011年の東日本大震災では、岩手、宮城、福島3県警の警察官らへの調査で、4.1%にPTSDと疑われる症状があることが判明しています。警察官や消防士らに特有な現象で、ストレスがありながらも、使命感や責任感から「弱音を吐いてはいけない」と任務を続けるケースが多いのでしょう。

人の世界では、一度、悲惨な体験をすると、そこから、新たな別の悲惨な現象が生じてくるということがあります。「負の連鎖」とでもいうのでしょうか、うちのめされてしまいます。わたしたちにできる唯一残されたことは、・・。だから祈るんです。願うんです。願い続けるのです。神はわたしたち一人ひとりの置かれている事情を分かっていらっしゃるから、むしろ、助け舟を差し向けてくれるのです。

今日の主日から聖週間に入ります。今日の福音書(入場の福音)では、イエスがエルサレムに入場します。人々は大歓迎の中にイエスを迎えますが、イエスご自身は一直線に十字架に向かうことになります。

受難の主日:父よ、わたしの霊を御手にゆだねます、と言ってイエスは息を引き取った。
受難の主日/枝の主日(C年)の聖書=ルカ23・1~49〔そのとき、〕民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。

十字架を担って歩むイエスの姿について、福音史家は詳しく丁寧に書きしるしています。今日のルカが示す、わたしたちに伝えたかった中身は何でしょうか。イエスのその心をどうとらえたらいいのでしょう。

無実で刑罰を受けたら、精神的に耐えられない

その一つは、ユダヤの指導者たちから訴えられたイエスに対して、ピラトは、イエスが無罪であることを知り、何度も、彼らの訴えを退けようとしているということです。「死に値することはない」という宣言をします。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」と。

もう一つは、「『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』」といってあざ笑いながら侮辱する彼らについて、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、祈っておられるということです。これはルカだけに見られる記述です。

無罪でありながら、刑を与えられると、普通の精神状態ではいられなくなるのが人間の普通の姿なのではないでしょうか。イエスにはそれがありません。イエスを訴える人の悪意がどんなものであれ、イエスの人を思う心、愛していく心に揺らぎはないのです。

イエスは「彼らをお赦しください!」と祈った

それどころか、人々への愛の心は「父よ、彼らをお赦しください。」という祈りに変化するのです。人々の醜い訴えが、いかに悪意に満ちていても、イエスのやさしさ、ゆるしの心は深まっていくのです。わたしたちとはあまりにも違い過ぎる、愛するイエスの姿です。「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピへの手紙2章6~8節)とパウロが言うように、苦しみのきわみにおいて、神の愛の豊かさが姿を見せたのです。

つまり、ルカはわたしたちに、人間の暴力にも憎しみにも、愛の心をもってこたえるイエスの中にこそ、平和の原点があるということを訴えているようです。だから、イエスに向かう、祈る価値があるのです。無意味ではないのです。すがりましょう。

惨事に遭遇すると、わたしたちは自らを見失いがちです。イエスはそうではありませんでした。だからこそイエスに向き直りましょう。語りかけてみましょう。訴えましょう、今の自分の惨状を。たしたちのために、いつも助け舟を準備しているイエスに。

 

【4月10日】受難の主日の聖書はこちら

 入城の福音(ルカ19・28-40)

そのとき、
19・28イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、

30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。

31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。

33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。

34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。

35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。

36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。

38「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、いと高きところには栄光。」

39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。

40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

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