主の受難(B年)の説教=マルコ14.1~15.47
2012年4月1日
いよいよ聖週間に入ります。教会は受難の典礼を過ごしてまいりますが、一般社会では進学、進級、新しく入社された人々の喜びと期待の意気込みに満ちた顔が並びます。受難の典礼期間だからといって、沈んだ、暗い顔をしなくてはいけないというわけではありませんが、少なくとも真剣に日常の動きを意識してみることがあってもいいかなと思います。
わたしたちの日々の積み重ねが、いかに大事なことなのかを改めてみてみたいのです。つまり、わたしたちは「信仰者」です。だれを信じて仰いでいるのでしょうか。神を意識するとき、こととは、どんな時でどのような内容なのでしょう。
わたしたちが信じているイエスさまは、人間とは違った次元の発想をよくなさいます。それは、「神は愛である」という現実から出てくる当然の理であると言えます。つまり、神としての力強さが見られないその姿の中に、神の子として宣言される神秘、奥深さがあるのです。
それは、イエスさまが十字架の上で息をひきとり、いっさいの救いのドラマが終わりそうなその瞬間に、「まことにこの人は神の子であった」と百夫長は叫ぶのです。この言葉は、置かれた状況の中では非常識な表現に思えます。さらに、イエスさまはここでは何ひとつ神の子であるというしるしは行っていません。その上、二人の極悪人とともに処刑されていくその姿の中に神の力強さは見られません。
マルコはわたしたちに、どのような状況であっても、イエスさまは「神の子」であるということを、それも最悪の環境(神の子として宣言するのは無理な環境)の中で伝えようとしています。それは何を意味するのでしょうか。
「神が神であることのより確かなしるしは、愛の中にある」ということです。どんな苦しみの中でも、それを耐えていくその中に愛があるのです。つまり、苦しみが大きくなればそれだけ、愛の力も増していくのです。その現れをイエスさまの苦しみの中に、マルコは見ているのです。その頂点が、イエスさまの十字架の上での死です。
人間の常識から見たとき、すべてが終わりかなと思うその瞬間に、新たな始まりが動き出すのです。ここに神のなさり方があります。日常生活の中で、ちょっと意識してみる時間を作られるといいですね。
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