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受難の主日:選択を迫られる時代こそ信仰の感性、人間の感性を豊かに

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受難の主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

受難の主日/枝の主日(B年)の聖書=マルコ15・1~39

2021年3月28日

皆が体験中の「二兎を追う者は一兎をも得ず」

新型コロナウイルス感染症により、今、世界中が困り果てているのが、感染防止と経済の立て直しという、双方とも人が生きるための重要な案件です。こちらを立てるとあちらが立たずで、「二兎を追う者は一兎をも得ず」の状態です。欲ばかりを出していくところには安心・安全は存在しないのです。人生がそのようでは困り果てます。でも、そうした経験は誰にでもあるのではないでしょうか。今まさに、その真っ只中にいるわたしたちではないかと思うのです。

オンラインの接触ではストレスが多い反面

よく耳にし、目にするのは「オンライン授業」「テレワーク」「ウェブ会議」「ネット投票」等、言葉だけを聞いたら、はじめは意味がわからない人だっていたのでは、・・と思うくらいに、極力(?)人との接触を否定する生活が求められています。

とはいっても、そうした生活が続きますとストレスが募り、別の病を発症したり、思いっきり羽目を外したりと、通常ではない生活態度に出てしまう人がいるのも事実です。これまでの一年間で目の当たりにしてきました。いずれにしても、この一年間は仕事にしても、授業、研修会等にしても、温もりを感じる出会いがなされないままに今日まで来てしまっています。

中でも、人を大事にする仕事としては最高の職・教師が、人を避けるようになっては、自らの人間としての感性が低下し、職務を全うすることができなくなるのではないかと危惧しています。特に、幼児期にある子どもたちと過ごす幼稚園の教師には、豊かな感性と品格が求められます。ひたすら人との交わりを通して培われていくものではないかと思うのです。わたしたちは「生長」ではなく「成長」しているからです。

移動負担・感染リスク減で歓迎されている

先日の報道で、「離島保育士の研修」がオンラインでなされ、移動負担・感染リスク減で歓迎されています。「キャリアアップ研修会」です。(南日本新聞2021年3月22日朝刊)、

そのメリットは、参加した人の話です。「本土で受けた対面研修と変わらない内容と質だと感じた」「感染リスクを抑えながら多くの職員を受講させることができた」と喜んでいます。これまでは、研修は本土の鹿児島市で開催されてきました。離島の施設にとっては、研修費用のほか、数日間の人繰りが負担となっていたといいます。数年前から、県にオンライン研修を訴えてきましたが、コロナ禍となった昨年、要望の声がさらに高まり実現した経緯があります。一方ではデジタルの生活であり、他方ではアナログの生活です。

そして、県の子育て支援課の三反田みどり課長は「オンラインは離島の研修機会を確保するための選択肢の一つ。今後進めていくべき方法だと考えており効果を検証していきたい」と述べています。願わくは、真に大事なポイントを見逃すことのないようにと期待します。

時と場に応じた選択は、いつの時代にも必要

時と中味を確認しながら、今、何を選択をしたらいいのかを判断していくこと、強調していくことは、なにもコロナ禍だからではなく、いつの時にも求められる大事なことであろうと思います。何事も、わたしたちが生きるためには大事な要素であるからです。

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きょうの受難の主日に、マルコ福音書のイエスの受難個所が朗読されます。マルコでは、ピラトの審問に始まり、兵士からの侮辱を受けたイエスがいよいよ十字架につけられ、死ぬ場面で最高潮に達します。

イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれます。十字架に放置された今は、神に見捨てられた状態にしか映らなかったのでしょう、だから「お見捨てになったのですか」との嘆き節を神に呼びかけてしまうのです。「わが神、わが神」ですから、明らかに「呼びかけ」です。ということは、神からの応答を期待しているのでしょうか。

傍にいたとしても、心がそこに向いているか

こうして、イエスが大声を出して息を引き取られると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。年に一度、大祭司だけが入ることのできた至聖所の前にかけられていた幕です。「幕が裂ける」というしるしは何を意味するのでしょう。「至聖所」ですから他と区別された尊い取次の祈りの場所であったのです。それを専任の大祭司が行っていました。そして、区別していたものが「幕」でした。その幕がなくなったというわけですから、すべての人に神との直接的な交わりができるようになったという出来事だったのです。これが、イエスの叫びに対する神の答えでもありましょう。

さらに、異邦人もその枠の中に招き入れられたのです。そのことを最初に示してくれたのが百人隊長(異邦人)です。彼は「イエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」のです。彼の信仰告白でした。「そばに立っていた」のは彼だけではなく 「そばに居合わせた」他の人もいたのです。しかし、イエスのそばにいたとしても、イエスの十字架は、心が遠くにある限り、「つまずかせる」ものでしかありません。「イエスのほうを向いて」そのそばに立っているとき、神の救いの業を見て取ることができます。「神の子だった」と。

同じ出来事を、多くの人に知らしめるために、福音書記者たちはその関心の示し方、強調点の絞り方に差異が見られます。

それは、わたしたちの社会ではもっと顕著です。感染防止に没頭するのか、経済回復に舵を切るのか、権限を持っている人の関心度に大きく左右されます。

その結果を受けるのはわたしたちです。一人ひとりが成熟した信仰の感性、人としての感性を豊かにし、生きるエネルギーにしたいですね。

 

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