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復活の主日:イエスの復活は、バリア(幕)のない教会づくりの力

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復活の主日の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

復活の主日/日中のミサ説教=ヨハネ20・1~9

2021年4月4日

暖かい春を迎えたとはいえ、「コロナ」という不安を抱えたままの新年度となりました。昨年の今頃は、感染者が3,000人を超えた状況でした。それが一か月後の5月は15,000人を超えるようになったのです。次第にその数は増し、7月下旬には死者が1,000人に達しました。(ウキペディア)

不安を抱えたまま、コロナ慣れで迎えた新年度

そして、今の状態です。

思い起こしますと、最初のころは初めての体験でもあり、さすがに多くの方が「恐怖」に近い観念を抱いていたのではないかと思いますが、今や、「コロナ慣れ」もあって(?)大きく構えて、無関心を装う人も少なくないのではないでしょうか。同時に感じるのは、日本人の「ひととなり」の質が低下してしまったのではないかということです。

外国の方がよく口をそろえておっしゃることに、「日本人の心くばりの温かさ」があります。そして、それゆえに大事にされているのが「和」と「輪」でしょう。その根底にあるのが、一期一会の心ではないんでしょうか。この人とはこれっきり会えないのではないかという思いが、わたしたちの振る舞い、仕草に現れてくるのではないかと思うのです。そのような先輩たちの間に生きてきたのです。そして、日本人一人ひとりが「日本人」として成長し、その人間文化を背負って、今度は後輩たちに分かち合い、引き継いできたのではないんでしょうか。これが文化の継承といわれるものになるのでしょう。

でも、それ以前は、もっと純粋で清らかなひととなりを、だれもが持ち合わせているものだと思うのです。

子どもたちの感性は、人間の常識を超えている

保育施設や幼稚園で先生たちが聞いた、印象的な子どもの言葉が紹介されています。(讀賣新聞西部本社、2021年3月27日朝刊) 幼稚園時の子どもたちは、五感が極めて素晴らしく発達していきます。この時期に、自然界並びに音、絵の美しさ、色のハーモニー等を体験することは、その子にとって大きな財産になっていきます。今は体験して会得していきます。言葉にしても、文法から勉強して覚えていくのではなく、音を聞いて確認し、使い分けていきます。五感を研ぎ澄ましていくことが大事になってきます。子どもたちが持つ感性のすばらしさは、大人のいわゆる「常識」をはるかに超えた、想像もつかない音、言葉を発します。

「本格的な雪が降った日のこと。お昼寝明けの子どもたちに『雪が降ってるよ!』と声をかけたところ。2歳女児『せんせい、今日、クリスマスなの?』。『一瞬でメルヘンの世界へいざなわれました』と保育者」

「廊下の日当たりのよい所に座っていた年中男児に、『ひなたぼっこ』という言葉の説明をした。10分後、日陰に移動して丸まっていた。保育者『どうしたの』男児『日陰ぼっこしているの』」。

「園に大きな森ある。ササの小さなトンネルを走り抜けると、大きな木の木漏れ日がはっきり見えた。年中女児『あっ おひさまが指さしている~』」

復活の主日/イースター:マグダラのマリアは墓から石が取りのけてあるのを見た
復活の主日の福音=ヨハネ20・1~9 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。

いずれも、子どもたちの感性は、「人間常識」の世界に身を置きなれた大人たちにとっては、予想もつかない感覚の豊かさを提供してくれます。また、保育にかかわっている教師たち自身にとっても、新鮮さとともに自らの発想の転換、展開のために力になっているのでは、・・。子どもたちの発した言葉を見逃さなかったこと自体が、そのことを物語っています。

マリアと弟子たちは、なぜ「墓」に拘ったのか

今日は主の復活を祝う主日です。21世紀の今を生きているわたしたちにとって、イエスの復活は歴史的に過去の出来事です。だから、聖書の復活の話を聞いて読んでも冷静でおれます。しかし、イエスの時代の弟子や婦人たちにとっては、慌てふためいてしまう驚きの出来事だったのです。しかも、彼らの習慣通りに死体に香料を塗り、新しい墓に確かに収めたのです。でも、墓は空だったのです。ユダヤの指導者たちは、遺体を盗まれることを恐れ、墓の入り口を石でふさぎ、番兵たちまで置いたにもかかわらずです。

つまり、婦人たちは亡くなったイエスとの関係を保ち続けたいのでしょう、マリアは一人で墓に向かうのです。そして、入り口の石が取り除けられ、その中は空であることを知ります。これではイエスとのかかわりを取り戻すことはできません。マリアはペトロのところにとんで行ってこのことを知らせます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と。

墓は確かに亡き人を思い出し、語り合う場としてあるかもしれませんが、マリアにしても弟子たちにしても、イエスの復活を理解し、受け止めているのであれば、墓にこだわることはなかったのです。だって、「墓」は過去の懐かしい思い出に浸ってしまう場所であるからです。

復活は信仰の対象であり、立証の対象ではない

しかし、復活が意味しているのは、父なる神が、あのように生き、死んだナザレのイエスを死の力の束縛から解き放ち、人類の救い主としてご自分と栄光を分かちあうべく受け入れたということです。そういう信仰を表明した言葉なのです。したがって、「復活」ということは信仰の対象であって、立証する対象ではないということです。人間の常識の世界では想定できない、何よりも、父なる神のわざであると解します。

あの子どもたちも、神から受けたわざを表現しているに過ぎないのかもしれませんね。だからこそ、子どもたちに教わるたくさんのことがあります。復活の祝日は、お互いの間を隔てている「幕」を取っ払い、さらに広く、分け隔てのない新しい共同体(教会)の誕生へと駆り立てる、わたしたち一人ひとりの、内的エネルギーにしていきたいものです。

 

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