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復活の主日:今年もなお、「わたし」に語り掛ける神をどこに感じていますか

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

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復活の主日/日中のミサ説教=ヨハネ20・1~9

2020年4月12日

主の復活おめでとうございます。

若いころは、どこに行っても、何をしても気持ちよく楽しくできていたことが、年を重ねていくにつれて面倒くさくなったり、すぐに諦めモードに陥ったりしてしまいます。すると、おのずと動きがゆっくりテンポに変わり、必然的に体力の減退につながっていきます。そして、気力も低下し、肌にもつやがなくなり、挙句の果ては、年を取ってしまったなあ、いうことになっていきます。

人間は歴史と体験の中で形成されていく

人それぞれに、その人ならではの歴史があります。そして、その中で様々な歴史的体験を重ねているし、そうしてきたのです。その体験が、今の自分に影響していることは言うまでもないでしょう。要するに、それらの体験が「わたし」の血となり肉となって、今の「わたし」が形成されています。したがって、わたしたち一人ひとりの人生の始まりは、基本的には、その人の人生の歴史上出会った人、出来事に起因しているといっても過言ではないのではないでしょうか。中でも、親、家族の影響は大きいし、大切です。

今や世界は、新型コロナウイルス感染症に関するニュースで大騒ぎとなっています。北朝鮮も例外ではないようです。

世界中で新型コロナ関連の事象が話題に

アメリカ政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA) によれば、新型コロナウイルスの拡散対策として強力な封鎖措置を続ける北朝鮮で、凶悪犯罪が多発しているといいます。RFA の咸鏡北道(ハムギョンブクト)の情報筋によれば、北朝鮮が1月末から国境を封鎖し、中国との貿易ができなくなった影響で、日ごとに物価が上昇。さらに、感染が疑われる人に対する極端な行動制限の影響もあり、衝撃的な事件が多発していると伝えています。

2月末、清津では市党(朝鮮労働党清津市委員会)の幹部の息子を連れ去り、身代金を要求する誘拐事件が発生しました。逮捕された容疑者は、製鉄所で働いていた40代の労働者の兄弟で、「家に食べるものがなく誘拐を企てた」と述べたそうです。このように幹部やトンジュ(金主、新興富裕層)やその家族をターゲットにした犯罪が多発しています。

北朝鮮では凶悪犯罪が相次ぐとの報道も

情報筋は「金持ちと貧乏人の対立と憎悪が徐々に激しくなり、自殺や拉致、強盗などの凶悪犯罪が以前になかったほど増えて、住民は不安に震えている」と殺伐とした北朝鮮国内の状況を伝えています。(2020年4月7日Yahooニュース)

また、軍でも兵士の脱走や凶悪犯罪が相次いでいると伝えられています。一部の部隊で脱走が発生しているほか、銃器の管理がなおざりになり、また兵士が民間人を射殺するといった事件が起きているとRFAの情報筋が伝えています。規則に縛られ、自分で商売することのできない兵士たちは、社会に変動があればたちまち飢餓状態に放り込まれ、生き延びるために極端な行動に出ることになるようです。

私たちはいま、歴史的現場に立っている

今は、何も北朝鮮だけではなく、いたるところで同じような思いに駆られる人が出てきてもおかしくない状況なのかもしれません。つまり、現に遭遇している人、出来事によって人は変わりうるし、大げさに言えば、その歴史的現場に立っているのです。

復活の主日/イースター:マグダラのマリアは墓から石が取りのけてあるのを見た
復活の主日の福音=ヨハネ20・1~9 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。

わたしたち人間の歴史的出来事の上に成り立っている宗教がキリスト教であるといえます。約2千年前に、イエスという人がガリラヤに登場し、説教し、神の福音を宣べ伝え、あらゆる病を治し、その結果ユダヤ人にねたまれて十字架刑に処せられ、その後、復活したという事実にその始まりの基を置いているのです。そのことの証人として、イエスの弟子と言われる最初の12人の使徒たちは、その自覚をもって生きていました。それゆえに、あちらこちらでそのこと、復活のあかしをして回ったのでした。いわゆる宣教活動です。

自分にとって「イエスの死と復活」とは

今日の福音書の中で、より具体的に述べられている「からの墓」の描写は、復活が事実であることを強調したいことの表れと言えます。しかし、歴史的事実と受け止めたとしても、それだけでは、2000年もの間、語り告げられてきたキリスト教は、存在しえなかったと思います。語り継がれてきたことが、今の「わたし」にとって意味あるものとなったときに、「キリスト者」としての「わたし」が存在することになります。すなわち、イエス・キリストの十字架と復活が、「わたし」の救いにとって、決定的な意味と力を持った歴史的出来事になったときに、その集まりとしての教会誕生となってきたのでした。別の表現を借りるならば、イエスの十字架と復活が、「わたし」が生きるための血となり肉となっているときに、真の「キリスト者」と言われるのでしょうか。

したがって、「宣教する」とは、単に歴史的事実を語り継ぐだけでなく、その出来事の中に込められている神ご自身並びに神の恵みと力の証人になることです。逆の言い方をしますと、自分の弱さ醜さに目覚めれば目覚めるだけ、主の復活のありがたさがわかってくるのではないでしょうか。ペトロがその典型ではなかったでしょうか。主を裏切ったペトロの心境は、絶望の境地だったのではないかと思われます。人間イエスに期待していたからでした。だからこそ、真のイエスの力を、復活の中に見て取れたのでしょう。

長い歴史を経て、今もなお、歴史の中で語りかけておられる神の、今の「わたし」にとっての愛をどこに感じているでしょうか。

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