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受難の主日:今起こっているできごとの中で、イエスの受難を黙想したい

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

受難の主日/枝の主日(A年)の説教=マタイ27・11~54

2020年4月5日

今日からいよいよ聖週間に入ります。

新型コロナウィルスで世界中が苦しむ中で

今年は、新型コロナウィルスの蔓延の影響を受けて、世界中のたくさんの方々が、それぞれに「苦しみ」の体験をして、一生懸命生きています。ウィルスそのものの、もともとの発生源がどこなのか、いまだにわかりませんが、とにもかくにも、どうしたら終息できるかがそれぞれの国の悩みであり、課題でもあります。今こそ、人類の知恵を出し合って、さらなる協力をしていく必要を感じます。

今の日本では、ウィルスの感染者がいかにして罹患しているのか、その経路がわからない人が増えてきていることが問題視されています。こうした現象があちらこちらで増え始めると、オーバーシュ―ト(爆発的感染)状態に陥ることになると専門家のみならず、わたしたち国民にとっても、さらなる大きな関心事であります。

飲食店では受動喫煙対策でも苦渋の決断か

その一方で、国内の他の出来事を見ますと、去る4月1日より、受動喫煙対策を盛り込んだ改正健康増進法が全面施行されました。罰則付きの受動喫煙対策を盛り込んだ改正健康増進法です。多くの飲食店が店内禁煙に踏み切ったのです。新型コロナウィルスの感染拡大のあおりを受けて、客足が鈍る中、飲食店に禁煙による売り上げ減も予想される新年度のスターとなってしまいました。(毎日新聞2020年4月1日ネット配信)

老舗のカフェも灰皿撤去を余儀なくされ、苦渋の決断だったようです。売り上げ減も懸念される一方で、歓迎する声も聞かれたといいます。愛煙家にしてみますと、長い間、慣れ親しんできた店の雰囲気、調度品の数々、そのお店自体にも愛着が感じられるのではないでしょうか。

1日から全面禁煙となったカフェに、福岡市中央区の新天町商店街にある老舗カフェ「サン・フカヤ」があります。経営する舩木治さんによりますと、新型コロナウィルスの感染が広がった3月は売り上げが3割減ったが、禁煙によってさらに1,2割減るとみておられます。舩木さんは喫煙室の設置も考えたといいますが、国が定めた厳しい分煙基準をクリアするには課題が多く断念したそうです。常連客からは「肩身が狭くなったな」と諦めに似た声が聞かれるといいます。1956年の創業以来、初めての禁煙開店となるそうです。ここ数年、通院の際に立ち寄ってモーニングを楽しむ同区の中村加代子さん(72歳)は「わたしは吸わないのでありがたいです」とほほえんでいました。

現実の問題から主の受難の黙想ができれば

例年、この時期になりますと、桜の開花、新入学・新入社と明るい話題が多い時です。それが、新型コロナによる心身の受難を経験している本年、現実的に味わい、今のこの時における苦しみを捧げて、主イエス・キリストの生きた様を黙想し、残りの受難節を生きる年にしていけたらいいですね。

受難の主日:百人隊長や見張りの人たちは「本当に、この人は神の子だった」と言った
受難の主日/枝の主日(A年)の聖書=マタイ27・11~54 イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。

四人の福音著者の中でも、マタイは、イエスの苦しさを、苦しむイエスを描いています。それにより、イエスを取り囲む人間の闇の部分、醜さが表面化してくるのです。つまり、イエスが苦しんでいる源になっているのは、そうした人間からの「追い詰め」ていく悪意がそうさせてしまったのでした。

イエスの苦しみの源は人間の「追い詰め」

イエスの身近にいて、他の弟子たちとともに成長してきたユダにいたっては、イエスを司祭長たちに渡す報酬を交渉し、取引する彼の姿が強調されています。ペトロは、みなの前でイエスを「そんな人は知らない」「わたしにはわからない」などと言って、否認します。やはり、わが身の安全を図りたく、自分の命の保全を優先してしまうのです。また、司祭長と長老たちの腹黒さも目立ちます。自らの権力の維持、地位の確保のためには、どんなにあくどいことをも考え、実行します。そして、その裏では民衆を扇動してやまないのです。ここに、人間の醜さ、無節操な実態があります。無節操と言えば、そこに群がる群衆です。指導者である司祭長、長老たちの指導に、というより操りにまんまとはまってしまうのです。

このように、人間の欲望とエゴイズムに傷つけられたイエスが、苦しまれないはずがありません。人の中に息づいている悪への傾き、そして、罪が、イエスの上にのしかかっていくのです。まったくの孤独に追いやられていきます。追いやる側の人間にはそのことがわかるはずもありません。むしろ、そのことを楽しんでしまうのです。相手が苦しむ姿を見て、喜びを感じるなんて、いわば、異常状態です。

人の思いを超えた神の関わりを見つめたい

こうした人間の姿に気づいていたにもかかわらず、イエスは苦しみの先にある「死」を受け入れられるのです。わたしたちの思いをはるかに超えた、人間の常識では考えられない神の神秘です。今のわたしたちにとっての救いは、こうして実現されたのです。だからこそ、安心して、希望をなくすことなく、窮地に立たされた時にも前を向いて進めることができるようになったのです。

来る聖週間の典礼を通して、神のわたしたちへの関りをじっくりと見つめてみませんか。神にしていただいたあの事、この事、たくさんあるのではないでしょうか。その時の神からのメッセージは何だったのでしょうか。

今、わたしたちの周りで起こっている出来事、見えてくる現象の中にある神からのメッセージは、…?

 

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