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年間第28主日:ミサへの参加が、生きた「天国」の体験となるように!

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年間第28主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第28主日(A年)の説教=マタイ22・1~14

近年は、台風の大型化とそれに伴う強風、豪雨、その結果としての河川氾濫、土砂崩れ等、自然界の脅威は後を絶ちません。それによって、人間の生活、日常の備えも徐々に変化を強いられていきます。

今年はさらに加えて、新型コロナウイルスの感染拡大と、次から次へと人間の生活環境を脅かし、日常に大きな変化が生じてきました。変化の多くは、生活苦です。それも、そこから脱却するためには、今までにない発想の転換、そして、展開が要求される「生活苦」なのです。これまでは、さほど問題にされることはなかったかもしれないことが、今のコロナ禍の状況では問題も大きくなり、困難を極めます。

台風時の避難所の「定員」をめぐる問題から

身近なところでは、台風の際の避難所があります。先の台風10号では、鹿児島県内23市町の100避難所が満員になりました。(南日本新聞2020年10月5日朝刊)新型コロナウイルスの対応が迫られる中、自治体の判断が割れています。医療態勢が弱い離島(奄美市)では、新型コロナウイルスへの警戒が本土以上に強いのです。したがって、通常の10倍以上の約2500人が身を寄せた今回は、当然のこと避難スペースが不足。夜にかけ八つの避難所を追加で開設しました。

一方、鹿児島市は奄美市とは逆の対応を取りました。密集を防ぐため、定員を従来の半分に減らす一方、感染リスクより緊急避難を優先したのです。満員となった13カ所では、その後も避難者を受け入れ、定員を超過しました。半数近くが暴風域に入ってから来たというので、別の避難所へ移ってもらうのは危険で現実的ではない、ということから定員超過でも受け入れる態勢を取ったのでした。

専門家は「自治体と住民は次への備えを!」

確かに、避難所の「3密」は感染リスクを高め、暴風圏での移動は危険を伴います。こうした事態を想定し、「感染予防と防災意識が高まった今こそ、自治体と住民は次への備えを進めるべきだ」と勧告するのは鹿児島大学の岩船昌起教授(災害地理学)です。

普段のわたしたちにとって、こうした現実から逃避することはできませんし、してはいけないでしょう。絶えずより良い環境づくりを目指しているのですから、・・。少しでも豊かにしてくれるもの、ことに関しては、敏捷に反応します。そして、これはと思ったことにそそぐ人間のエネルギーは相当なものです。特に、自分の儲けのため、自らの力を拡大できるならば、あくどいことも平気でやってのけるものです。日々の報道等を見れば納得出来ます。

婚宴「拒絶」と「礼服着ずに出席」を考える

きょうの福音書は、王子の婚宴に人々を招く王のたとえ話です。この話の中では、二つのタイプの異なった人々が登場します。王の招待を頭から拒絶する人々。もう一つは、招きに応えながらも礼服を着ていないために外に放り出される人々です。

年間第28主日:天の国は、王子の婚宴に似ている。招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない
年間第28主日(A年)の福音=マタイ22.1~14 〔そのとき、〕イエスは祭司長や民の長老たちにたとえを用いて語られた。 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。

きょうのたとえ話の特徴は、人々の理不尽な残酷さです。招待状をいただきながら、その断り方にこんなことがありうるだろうか、と考えられない情景です。どうしてそのような断り方をしたのかその説明はされていません。

招待を拒んだ人たちは日々の生活で精一杯

ただ言えることは、みな一人ひとり状況はちがっていても、現実の生活に追われ、のめり込んでいる姿があることは確かであるといえないでしょうか。

現代のわたしたちも同じことが言えるでしょう。自分の、そして、家族の生活を築き上げ、経済的な安定を獲得しようと、願わくはちょっとでも楽な生活を、と考えてしまいます。それでも予期しない出来事が起きると、築き上げた安定の基盤が瞬く間に崩れ落ちてしまうのです。これがまた現実です。

したがって、わたしたちにとって現実とは、生活であり、仕事であり、お金であるのです。さらに、人間関係です。これらを追求することが悪いということはないです。ただ、のめり込んで他が見えない状態になっていないかということです。わたしたちは地上に生きています。地上の現実に心をかけることは当たり前のことです。しかし、心を「すべて奪われて」いないのかということです。

そのような人の心には、イエスの呼びかけが届くはずもありません。無視されるだけで、むしろ邪魔になっているのです。王の招待を頭から拒絶した人々は、まさにこうした人たちだったのでしょう。

礼服非着用の人は招待の重要性を認識せず

それに比べ、別のタイプの人々は、頭から無視したわけではなく、招待は受け入れたのですが、それにふさわしい服装ができていなかったのです。つまり、呼びかけそれ自体の大切さ、重要性を認識していなかったのです。聞くには聞くのですが、音として聞くのと、心から聞いて納得するのとでは大きな違いがあるでしょう。見ていても、実は見えていなかったことってよくある話ですよね。それと同じになってしまいます。

神の呼びかけは、日常どこでも、いつでも、だれに対しても、絶えず続けられています。形だけのものではないのです。真実の悔い改めを求め、呼びかけられています。しっかりと聞いて納得し、受け止めていくことができますように、そのための恵みも願っているでしょうか。ミサにあずかり、神の恵みの席に招かれたとしても、「礼服」つまり、真実の回心を伴っていなければ、単なる形式、儀式でしかありません。「外の暗闇に放り出されて」しまいます。

完璧な人はいません。だからこそ、悔い改めて神の前に出ることを大事にしましょう。ミサへの参加は目に見えるそのチャンスのときです。その思いでお互いを見、交わり、支え合っていきましょう。

それが実現するとき、そこは生きた「天国」の体験といえないでしょうか!?

 

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