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年間第29主日:日々、自分の力だけに頼っていませんか

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年間第29主日(A年)の説教

年間第29主日(A年)の説教=マタイ22・15~21

2020年10月18日

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」をヒントに

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があります。どんなに苦しかったことでも、過ぎ去ってしまえば、しっかり忘れてしまうということのようですが、もう一つの意味もあるようです。「困ったときに受けた恩義も、それを乗り越えて楽になると忘れてしまう」というたとえとか。そもそもは、ご存知のように、熱いものを飲んでも、喉元を通り過ぎれば、すぐに熱さを感じなくなってしまうことからきています。

ところで、この一年間、わたしたちの日常について回ってきたもの、それは「新型コロナウイルス」でした。まだこれからも続くのでしょうか。一日でも、一秒でも早く終息してほしいですね。

コロナ起因の困難を支援する施策を見ると

一方で、コロナ禍で困っている方々を支援する新たな施策もあれば、また、なるほどと気づかされる施策もあります。一人ひとりが受けている困難さには程度の差があるかもしれません。が、しかし、苦しいことには変わりがありません。

生産者支援とフードロス解決を目指して

その中で、新型コロナウイルスの影響で出荷が落ち込んでいた「ねじめ漁協」(南大隅町)のカンパチを買い取り、かごしまこども食堂・地域食堂ネットワークに9日寄贈した話題が掲載されています。(南日本新聞2020年10月10日朝刊)贈り主は鹿児島銀行です。報道によりますと、生産者支援と食品廃棄問題(フードロス)の解決を目指す鹿銀は、取引先の余剰食材を子ども食堂に無償提供する合意書を6月に同ネットと結んでおり、その一環としての活動であるということです。

鹿児島市「産後2か月のママ支援」事業

また、「産後2か月のママ支援」事業を鹿児島市が始めます。森博幸市長は「最も不安に陥る時期に、しっかりとケアすることが大切。コロナ禍で自宅にとどまり、周囲に相談しにくい状況もあるだろう。積極的に受けてほしい」と語っています。

どのような事業かといえば、鹿児島市が、小児科医らと連携して産後2か月前後の母親のサポートをするということです。つまり、産後うつや新生児虐待を防ぐのが狙いです。妊娠期以降の切れ目のない支援を掲げる市独自の取り組みです。(同上紙)産後2~3か月はうつの発症リスクが高いとされており、これまでの産後2週間と1か月に設定している産婦健康診査と、乳幼児健康診査が始まる産後3か月の間もサポートします。費用の個人負担はないということです。

新型コロナウイルスが人間の生活の在り方、考え方までも変えてしまったといえます。本来、人間に備わっている、助け合って生きていく感性に目覚めてきたといえないでしょうか。わたしたち誰もが抱いている温かさ、やさしさを、もっと素直に形に出せる生き方を目指していくことが求められているように思えます。

誰かが困れば助けたくなるのが人の本性

困っている人が目の前にいれば、そっと助け船を出したくなる、それが本来の人間の姿なのではないんでしょうか。お互いにそれをありがたく頂戴し、助けを受けた人はお礼を述べ、それがお互いの安心感につながっていけば言うことなしでしょう。その先に、世界平和の世の中が出現してきます。

でも、現実はそうはいかないんですよね。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のです。これまた、人間が持つ現実の姿でもあります。極端な言い方をしますと、自分でどうにかなると思っている人は、いつかは倒れます。今日の福音は、そのような生き方に対して、見つめなおすよう促しています。

年間第29主日:「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
年間第29主日(A年)の福音=マタイ22・15~21 〔そのとき、〕 ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。これは、ファリサイ派のずるさが垣間見える質問に対するイエスの返答の言葉です。彼らが予想もしない返事が返ってきたので、逆にうろたえたことでしょう。

イエスが言う「神のものは神に返せ」とは

「神のものは神に」とはどんなことでしょうか。

わたしたちの存在は、そして、今もなお生きてこられているのは誰のおかげなんでしょう。身近にいる親、兄弟、友人等の存在も、誰によってもたらされたものでしょうか。一瞬一瞬のわたしたちの存在を支え、養ってくださっているのはどなたなのでしょう。それは、神ではないでしょうか。

イエスはこのことを訴え、その事実をしっかりと見つめるようにと促しています。そうすることが、神に感謝し、神を大切にすることにつながります。さらに、人に感謝し、大事にすることに具体化していきます。(隣人愛)

「わたし」のすべてを支える神とのかかわりを自覚して生きていくところに「宗教」が生まれていくのです。その生き方を継続していくことが、神との交わりをさらに深めていくことになります。もはやそこには、信仰と現実の遊離はありません。

「喉元過ぎれば神を覚える」人になりたい

とはいっても、神からすべてをいただきながら、それらを恵みとは思わず、己の幸せだけに無我夢中になっているのがわたしたちの現実でありましょう。一見、順風満帆に見える我が帆船も、その時は、自分の力で思うように人生を送ることができると思っています、が、一度苦境に立たされると、あえなく沈没してしまうのです。

「神のものは神に」とは、わたしたち一人ひとりのこの世の人生は、神を無視し自分の力に頼るのではなく、神の愛による力、恵みによるものであるという真実に目覚め、神に感謝することなのです。

「神のものは神に返す」生き方こそイエスご自身の生き方であり、だからこそ、過ちを犯すわたしたちを、そのたびごとに支え導いてくれているのです。

「喉元過ぎれば神を覚える」わたしたちになっていくことこそ、今日、イエスがわたしたちに呼びかけ、わたしたちが受け止めるメッセージではないでしょうか。

 

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