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12月6日の聖書

待降節第1主日:「もの」より「人」への関心を高め、信頼の絆を深めて待つ

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

待降節第1主日(A年)の福音=マタイ24・37~44

2019年12月1日

きょうの主日から新しい典礼暦に入ります。日常生活の中で、何かの節目にあたりますと、気忙しくなったり、逆に落ち着いたりと、心身に何らかの影響を感じてしまうことはないでしょうか。今日から待降節に入ります。

待降節の過ごし方のヒントはみことばに

待降節は、文字通り、主のご降誕を「待つ」季節です。「待つ」という時に、普通は待っているもの、ことが叶うまでの間、その時が来るまで、何かをしながら、そのための準備をするのではないでしょうか。今、イエスの誕生を待つ季節に入りました。この季節をどう過ごせばいいのか、そのヒントをわたしたちに語ってくれるのが、この季節の「みことば」ではないかと思います。

「『お互いに人として、一緒に生きているんです』と思えることが大事です」と語るのは、菊地省三さんです。(讀賣新聞大阪本社、2019年11月27日朝刊)“教職の良さを伝えるには”という問いかけに対する応答のヒントとして述べられています。教職にある人の普段の喜びは何なのか、全国の学校を訪問して強く感じていることを述べていらっしゃいます。教育の世界は「多忙」「ブラック」と言われていますが、多くの教師は子どもたちとの日々の向き合いの中で、輝いているのです。やりがいや生きがいを感じながら過ごしているのです、と語ります。

教師は子どもとの触れ合いを通して成長

その中で感じているのが、「あの子たち、とてもかわいいんです」「子どもたちに支えられています」「子どもたちから元気をもらっているんです」という、現場の先生たちの共通したお話です。子どもたちと接している現場の教師の感性は、このような体験を通して育っていくのです。やはり、物、書類ではなく、「人」を通して人は成長し、成熟していきます。そして、「教師らしく」なっていくのでしょう。

教師の普段のよろこび、生きがいは、子どもとともに生きている喜び、信頼して支え合っているその姿にあるのではないでしょうか。しかし、書類作成、その他の多忙さの陰に、鳴りをひそめ、その感覚が鈍らされているのです。これは「異常」な状態なんですが、それが「正常」になってきつつあるという、実にさびしい、悲しい現実です。

教師と生徒は互いに「教わる」もの

また、教師と子どもたちが、人として「キャッチボール」ができていることに、本来の教育の原点があるように思うのですが、・・。「教える人」「育てる人」がいて、「教えられる人」「育てられる人」がいることが、「指導」であり「教育」であると勘違いしているのではないか、と、・・。お互いに「教わる」のであり、そうして共に「育っていく」のではないんでしょうか。人は生きている限り、常に、その年齢に応じた成長を遂げていっているんですよ。そのヒント、刺激を与えてくれる一人が「子どもたち」です。

待降節第1主日:人の子は思いがけない時に来る。用意していなさい。
待降節第1主日(A年)の福音=マタイ24・37~44 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。

イエスの誕生を迎える準備に取り掛かっているわたしたちの中にも、子どももいれば、成人、ご年配の方々もおられます。そして、お互いの交わりの中で、互いに刺激を受けながら、励ましを受けつつ「待っている」のです。

「待つ」ためには謙虚さと信頼が大事

普段、わたしたちは「待つ」ことの重大さに気づいてはいませんが、わたしたちの日々においては、「待つ」ことはかなりの比重を占めているといえないでしょうか。赤ちゃんの誕生然り、子どもの育ち然り、だからこそ、十分な親としての、大人としての準備が、事前に求められています。いのちの成熟に関しては、わたしたち人間は無力です。わたしたちの力を超えたより大きな力が働き続け、時間をかけて成長していくのです。その力に、わたしたちは信頼して「待つ」しかないのです。

だからこそ、待降節に救いの訪れを待つことができるために、やはり、謙虚さと信頼を高め深めることが大事になってくるのではないでしょうか。自分の力ではどうしようもないという自覚を、さらに深めていくことでしょう。それも、日常、何の変てつもない時に、事が起きるからです。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」のです。その日、その時を誰も知らないのです。

神への確信と希望をもって絶えず準備

しかし、こうした自覚、出来事が、わたしたちの生きる日々の中で、絶望につながるようであってはいけないのです。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と。つまり、闇の中でも、大きな力がわたしたちをやさしくつつみこんでくれるんだ、という確信を高めることだと、イエスは言われます。

これが待降節なのです。神を中心に、わたしたちの共同体として、家族として、互いの信頼感を高め、絆を深めていくこと、そこに待降節の過ごし方、準備のあり方があるのかもしれません。

日頃から、「人」への関心を強め、高めていきましょう。自ずと「人の輪」ができあがります。

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