待降節第1主日(C年)の説教=ルカ21.25~28、34~36

2012年12月2日

寄り添うイエス生きているだれもが願うことは、いつも、苦しみのない、悩みもない順調な毎日であることでしょうか。しかし、現実は「そう甘くはない」のです。だれしもが感じていることでしょう。「もし、神がいるのであれば、・・・」と愚痴りたくなります。ひどくなると手当たり次第に八つ当たりする人もいます。一方で、そうすることができない人もたくさんいるのです。

「主よ、今日一日貧しい人や病んでいる人々を助けるために、お望みでしたらわたしのこの手をお使いください」(マザーテレサの祈りから)。かつて、幼稚園の子どもたちが祈りとして捧げて歌った歌を思い出します。子どもたちはことばの意味がわかっているか否かに関係なく、一生懸命に訴えます。

この祈りの趣旨は、わたしたちの五感をすべて奉仕のために使ってください、ということでしょう。全身全霊をもって奉仕し、それによって飢え渇いている人々が癒されることを願っています。

その一方で、そういう「わたし」も飢え渇いている存在なのです。周囲の方々の奉仕を待ち望んでいるのです。必要としているのです。救いをつげる聖書は、人生は不幸だらけである、苦であるとは決めつけてはおりません。しかし、苦しみがある現実から目をそらすこともしていません。その代表的なものが大自然の力でしょう。天候不順、地震、干ばつ等、自然界の力の前では人間の小さな力ではどうしようもありません。

とはいっても、人が徹底的に傷つく相手は、自然界そのものではなく、「人間」ではないでしょうか。人との交わりから傷ついてしまうと、人によっては立ち上がることができないほどの痛手を受けます。自然界から押しつぶされそうな衝撃を受けたひとが抱える不安、恐れは、周りにいる人にも同じような影響を与えてしまいます。幸せなど一瞬のうちに吹き飛んでしまいます。

だから、救いに逆行するものにのみこまれないように目をさましていなさい、と喚起を促します。そのためには、ありのままの自分、現実をしっかりと見つめることでしょう。その後ろには、必ず神の力強い救いの手がわたしたちを招いています。