2011年/A年説教=神のみことば

カトリック典礼暦年2011年(2010年11月~2011年11月)は、主にマタイ福音書が朗読されるA年。Fr.YASUさんの今週の説教の年間テーマは「神のみことば」です。

2011年/A年説教=神のみことば

年間第8主日:私の命を養ってくれている方は神!ここに信仰者の希望がある

自分の力の限界をすなおに落ち着いて見つめる謙虚さが大切です。自分の人生の全体を、自分の思うように背負うことは、自分の力をこえることです。自分の力の限りを尽くす必要はありますが、「わたし」の人生を見つめ、配慮し、導いてくれる存在者が、別におられるのです。
2011年/A年説教=神のみことば

主の受難:イエスは「神よ、神よ、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と叫ばれた。

イエスさまは人から排斥され、しかも、心血をかけてきた愛弟子たちからも見放されていったのです。この事実をはっきりと認識できる今年の聖週間でありたいと思います。「わたし」の救いは、無実なイエスさまの苦しみの上に実現されたことを、改めて感謝することでしょう。
2011年/A年説教=神のみことば

主の復活:「空の墓」とは?何かが完全に終わるとところに、まったく新しい何かが始まる

過去の生き方に留まるのではなく、まったく新しい世界に導いてくださるのが今日の祝日です。マリアも二人の弟子たちもそのことには気づいていません。人の醜い思いにつぶされたイエスさまの受難と死は、まったく形を変えて、人の救いというイエスさまのわたしたちへの愛に変えられたのです。
2011年/A年説教=神のみことば

復活節第3主日:イエスの復活は、苦しみや悲しみが希望ある命への道となることを悟らせます

人間的にみれば、絶対敗北の象徴である「十字架」上の死の中に、本当は価値があるんだということを気づかせようとします。しかし、なみたいていなことではありません。深い闇がきても、悲しさが連続しても、希望ある命への道を歩み続けましょう。神に感謝!
2011年/A年説教=神のみことば

復活節第2主日:イエスは裏切った弟子たちを咎めず、「あなたがたに平安」と言われた。

イエスさまの死は、今も将来に向けてもまったく希望を抱けないほどのショックな出来事でした。ユダヤ人を恐れて戸を閉め、集まっていた弟子たちの間にご自分をお示しになり、一言おっしゃいます。「あなたがたに平安」と。
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四旬節第5主日:マルタと同じように必死な叫びをあげつつ、その力と恵みを祈りましょう。

マルタの叫びに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。このことを信じるか」とマルタに迫ります。ここが、今日の福音の中心です。この言葉によって、イエスさまは、ご自分の人生のありようを宣言なさっているのです。
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四旬節第4主日:見えない者は見えるようになり、見える者は見えなくなる(ヨハネ9・39)

パウロは言います。「恩寵の力は弱さの中に全うされる」と。つまり、神の恵みは、その人の中で自由に働くためには、「過信」があってはいけないのです。「見えていると思う人は」つい、自分の力を過信して自分の真の姿を見つめることができにくくなってしまいます。
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四旬節第3主日:生きた出会いを求め続けたい。生きた出会いで人は素直に自分を開きます。

人との出会いは、単に一緒にいるだけでは意味をなしません。今日の福音に登場しているサマリアの女の言い分を聞けばよくわかります。彼女は、その人生の大事な時期に、大事な人・イエスさまと出会いました。彼女の言葉にはうそ偽りがありません。
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四旬節第1主日:「荒れ野のとき」とはどんな「時」?「ノー」と言えるものがありますか

今日の主日は、神を大切にできなかった人間の姿と、おん父に対して最後まで誠実であられたイエスさまとが対比されています。さて、この「わたし」はどちらに属しているでしょうか。イエスさまは「現世的な」生き方に対して「ノー」という返事を出されたのです。
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四旬節第2主日:「彼に聞け」とは、本能のままではなく、イエスの生き方に学べ!ということ

イエスさまにかかわって生きる人にとって、「イエスに学ぶ」ということは避けて通れない現実です。つまり、わたしたちにとって後戻りできない生き方がそこにはあるのです。一度振り上げた手を下ろすことができないように、自ら選択した信仰の道は、前に進むしかないのです。
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年間第9主日:真の信仰告白は、「わたしが変わること」「神を感じる」毎日になることです

信仰は徐々に育ちます。弟子たちへのイエスさまの教育も急速ではありませんでした。じっと我慢の中で、しかし着実に弟子たちは信仰において成長したのです。しかも、日常生活の中で。洗礼を受けることは「キリストを主として認めること」です。
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年間第7主日:自分の命も他者のために開く!そうあり続けることがキリスト者の理想では

イエスさまは、ご自分が神であることを固持しようとはせず、十字架上の死に至るまでにご自分をわたされたのです。いわゆる、権利の放棄です。しかも、生きる権利を人々の救いのために放棄なさったのです。
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年間第6主日:自分の内なる醜さは人には見えないが、神の前にはさらけ出されています。

自分を清めることは神から絶えず求められていることであり、一人ひとりがそれに取り組んでいくならば、地上の平和も実現します。その根本にあるものは、徹底した受容と自己放棄です。イエスさまの生き方がまさにそうでした。
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年間第2主日:「あのかたは栄え、私は衰えなければならない」という洗礼者ヨハネの生き方

洗礼者ヨハネと弟子たちとの出会いは、弟子たちにとって恵みのときとなりました。そうなったのは、弟子たちの心の持ち方もさることながら、ヨハネ自身が何かを持っていたからでしょう。ヨハネは荒れ野で叫ぶ声、光をあかしする者、ぜいたくもせず砂漠の中で純粋に神の世界を求め救いに飢え、待ち望んでいたのです。いわゆる、神に対する情熱でした。
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主の洗礼は、人間を救うためにへりくだる神の姿。イエスの十字架で完成する救いの始まり

イエスさまが、おん父との関係を生き抜いたように、「洗礼」によってできた神との関係を生き抜く恵みを願いましょう。信仰は外に見えないだけに、見せる工夫をしながら共同体の礎としていきたいです。
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主の公現:自分にとっての公現とは?心の渇きを覚えるとき、神は近くにおられるのです。

「博士たち」(マギ)も社会のどん底にあって、傷ついた心を癒し、安心することがなかったのでしょう。そっと聞いてみたいですね。「どうして、そんなに遠い国からベツレヘムに来たの」。そこには、彼らさえも気づいていない「大いなるものの意志」が働いているのだと思います。
2011年/A年説教=神のみことば

聖家族:現実は遅々としていても「神から与えられたいのちだ」という自覚を持ちましょう

人間の本心には、人とのかかわりの中で、豊かになっていくものが必ずあるのに、それに気づいていないだけの話です。人間の真実の価値への自覚、人への真の愛がない家庭には、本当の安らぎ平和も生まれてこないのでは、・・・。その出発点にあるのが「家庭」での交わりです。
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待降節第4主日:マタイがヨゼフの立場から「キリストの誕生」を伝えたかった意図を読み解く

ヨゼフの立場から「イエスの誕生」を見るとき、それは、歴史上一回しかない救いの「事実」に直結していることがわかります。改めて、神のあわれみと人間への愛に感謝するとともに、愛の具体的な現われがXmasなのだということです。
2011年/A年説教=神のみことば

待降節第3主日:神の訪れを心底喜べる人は自分の無力さ、貧しさを知る人

「主においてよろこべ」と、パウロは呼びかけます。病人が医者にわが身を任せきる度合いによって、よろこびに強弱があるように、神の訪れを心底よろこべる人は、自分の無力さ、貧しさを知る人であるといえます。
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待降節第1主日:最後の審判のポイントは助けが必要な人に手を差し伸べたかどうか?

「もっとも小さなものの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのである」(マタイ25章45節)。つまり、この「小さなできること」の積み重ねを大事にして「今」を生きることである、とイエスさまは訴えます。