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四旬節第3主日:生きた出会いを求め続けたい。生きた出会いで人は素直に自分を開きます。

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四旬節第3主日(A年)=ヨハネ4・5~42

2011年3月27日

神のみことば

人生の長い短いに関係なく、たくさんの方、事との出会いがあります。それは非常にその後の「わたし」の生活に大切な意味を持っています。よい出会い、すばらしい出会い、恵みとなる出会いもあれば、その逆の出会いもあります。

そのようにして、わたしたちは大きくなり、成長していきます。それも、人生の節目に出会った人が誰にもいるものです。一人といわず、複数人いてもおかしくありません。その分、豊かな人となれるのではないでしょうか。

この度の大地震では、日本人の力を感じます。
冷静に事の推移を眺め、分析し、その上で助け合い、励ましあい、自分たちの持ち味を存分に出しながらの支援体制作りをしている会社等、全国の人々が、我が事のようにこの事故を感じていることがよくわかります。

悲しい現実の一方で、勇気をもらうエピソードもありました。これが今の日本人の現実です。外国のメディアが、「日本人は暴徒化しない冷静な国民だ」との評価をしていると聞きました。その陰で、不当な、非人道的な便乗犯罪(詐欺行為)も起きてはいます。

いずれにしても、人との出会いは、単に一緒にいるだけでは意味をなしません。
今日の福音に登場しているサマリアの女の言い分を聞けばよくわかります。彼女は、その人生の大事な時期に、大事な人・イエスさまと出会いました。彼女の言葉にはうそ偽りがありません。イエスさまはそのことをお見通しです。

彼女は、一人で生きていけないさびしさを紛らわすために、今男性と一緒にいるだけなのです。そのことを告白しています。そういう自分のどうしようもなさに、彼女自身が一番苦しんでいたのではないでしょうか。

そういうときに、イエスさまという最高の方と出会えたのでした。サマリアの女の心の奥には、男たちとの何度の出会いがあったとしても、それは出会いではなく、傷ついていく連続であったのです。それもひとつの出会いといえるでしょうが、彼女の中では、そうではなかったようです。やはり、心の渇きが癒されませんでした。

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さらにイエスさまにそのことを暴かれてしまうのです。そして、彼女は、真の命の高まりをいただくのでした。「主よ、渇くことのないように、また、ここまで水を汲みに来なくてもいいように、その水をください」

このような出会いこそが、命を疲れさせない輝きを与える愛の出会いです。このような出会いの前では、人はすなおに自分を開けるものです。求め続けていきたいことです。

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