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四旬節第3主日:ちょっとの悔い改めでも良い!神はそこに入ってくる

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説教の2019年・年間テーマ=「召ばれています、いつも」

四旬節第3主日(C年)の説教=ルカ13・1~9

2019年3月24日

日本では年度末になり、別れと新たな出会いの季節を迎えました。別れはさびしい気持ちになり、落ち込んでしまう人も中にはいらっしゃるかもしれません。長く親しんだ友だちとの別離は悲しくなったり、寂しいものですよね。そのかかわりの期間が長ければそれだけ、親密さが増しているので、辛いものがあります。

子どもたち、特に幼稚園児の場合、別れの時には激しく泣いたりしていますが、いつの間にか、何もなかったかのようにけろっとしている子どもたちが多いような気がします。これらは子どもたちが持っている特典ではないかと思います。さらなる人間関係を構築し、人としての幅を広げるための、その年におけるタレント(能力)ともいえるものではないでしょうか。

社会問題になっている子どもの安全確認

小学校への入学時期が近づくにつれて気になるのが通学路です。保護者に連れられて通った幼稚園や保育所とは異なり、子ども同士で通学したり、行動範囲が広くなっていくので、保護者の心配事も多くなっていきます。以前は問題にならなかったことがらが、今では深刻な社会問題になってきているからです。「子どもの安全確認」は学校、地域社会、周りのわたしたち大人の共通関心事になってきました。

子ども向けの防犯教室を開くNPO法人「体験型安全教育支援機構」(東京)があります。その代表理事、清水菜穂さんは「入学前に親子で通学路を歩いてみて、危険な場所をチェックしてください」と話します。(讀賣新聞大阪本社、2019年3月19日朝刊)それも、週末の日中ではなく、実際に子どもが下校する平日の夕方に歩くようにすることを勧めています。

登下校時に不審者が出没しやすい場所とは

不審者が子どもに接近しようとする場所の特徴として、清水さんは「近づきやすさ」と「逃げやすさ」を挙げます。人通りが少なく、歩いているのが子ども一人だけになりやすかったりする場所がないか確認することです。

通学の際には20メートル前方を見ることだと。清水さんによれば「20メートル」とは「不審者が子どもに目を付け、距離が縮まれば犯行を実行に移そうと考え始める距離」だといいます。不審者がいたら走って逃げるなり、防犯ブザーや大きな声も有効であるといいます。同時に、安全な場所も見つけておきたいものです。「こども110番の家」のプレートがある家や商店を調べ、子どもと一緒に「近くの道を通って通学するので、困ったときにはよろしくお願いします」とあいさつをしておくのも大事なことになるようです。

危険だけでなく助け手のことも伝えよう

しかし、最後にアドバイスしています。ただ、社会は危険や不審者ばかりと思わせてしまうと、子どもは不安でいっぱいになってしまうので、清水さんは言います。「子どもが困っている時には助けてくれる大人が大勢いる、ということも伝えておきましょう」と。

経験上わかっていることですが、人は一人では生きていけないということです。ましてや、自分中心的な生き方なんてありえない話ということになります。だからというわけではありませんが、人々の間に生きている一人ひとりだけに、話題も他者のことが頻繁に出てきます。その話がいい話であればいいのですが、得てして他人の不幸な話とか、さらに、ありもしない話がプラスされて、しかも、話す本人の思い込みも手伝って、本来の話とかけ離れてしまい、単なる「うわさ話」になってしまいます。

陥りやすい「思い込み」に気をつけたい

今日の福音でイエスはこのような話題を提供しています。つまり、ある事のうわさをするとき、知らず知らずのうちにわたしたちの心に忍び込みやすい思い込みを、訂正しようとなさいます。イエスは二通りの話をなさいます。一つは、虐殺やシロアムの塔の倒壊を取り上げます。もう一つは、いちじくの木のたとえです。

四旬節第3主日:あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる
四旬節第3主日(C年)の聖書=ルカ13.1~9 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ビラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。

わたしたちは「神」を自分の都合に合わせてしまう傾向はないでしょうか。つまり、都合が悪くなると神のせいにしてしまうのです。そして、人として何もしないのです。絶えず、神と自分をその場に応じて使い分けてしまっていることはないでしょうか。

神を信頼できないことは最大の罪であるが

イエスは第一の話によって、神に信頼できていないことが最も大きな罪であることをおっしゃいます。災難に遭ったからといって「ほかの人すべてのガリラヤ人よりも、罪深い人々だったと思うのか。そうではない」といわれ、悔い改めを進めます。神の働きかけを無視して行動する時に落ち込む罪です。つまり、自分が中心となってしまうのです。

神に頼るだけで何もしないことも罪である

一方で、いちじくの木の話は、神の働きだけに頼り、自分は人として何もしないで怠慢になってしまう罪です。それでも神は、わざわざ「時」のチャンスを与えてくれているのです。しかも、忍耐強く待ってくださるのです。にもかかわらず、無駄に時を過ごしてしまう「わたしたち」がいます。

このような言い方がゆるされるかどうか、「神と人との共同作業」(共に働くこと)によってわたしたちの日々は進行していきます。子どもの安全も、一人ひとりの安全も、多くの人びとの「共同作業」の力によって得られ、維持されていくのでしょう。一人ひとりがちょっとの悔い改めを進めたいですね。

 

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