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年間第14主日:日々の生活の場で、傍らに居るイエスに気づいていますか

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第14主日(C年)の説教=ルカ10・1~12、17~20

2019年7月7日

問題の核心は何?どこにあるの?と考えてしまう

「懐手(ふところで)」という言葉をご存知でしょうか。これは、和服を着たとき、手を袖から出さず懐に隠す姿を言うそうです。(讀賣新聞大阪本社、2019年6月28日朝刊)

昔はこの着崩しが、いいご身分に見えることがあったらしいです。夏目漱石に逸話が残っているそうです。あるとき家に泥棒が入り、衣服をごっそり盗まれました。やがて賊が捕まったといって、警察署から2人の男が来ました。懐手をする方を刑事と思い、お辞儀をしたところ、そっちが賊だったというのです。懐手は着物の下で縄に縛られていたためであったというわけです。そうだとしても、外見的な服装や態度でどんな人かわからないのは今も昔も同じなんだなと、当然のこととはいえ、思うことです。

変わるのは人間の心、思い、その心情を吐露するありかたです。ここ数年、世界各国の為政者、国内の教育者、芸人等の理念、考え方、生き方がおかしな方に偏っているように思えてきて、・・。何かが狂ってきているのでしょうか。

吉本興業タレントの「闇営業」に関すること

吉本興業のタレントによる「闇営業」についてのコメントがありました。謹慎処分とされた13人が、どんな巧妙な勧誘を受けたにせよ、おかしいのはプロダクションを通さない仕事にもかかわらず、相手を知ろうとしなかったことに尽きる、と。(同上紙)そして、次のように締めくくっています。「舞台からのお辞儀は芸人さんの大事な作法だろう。お客さまを間違えないように」。

児童福祉法と児童虐待防止法の抜本的強化策

その他にも気になるところでは、児童虐待防止に向けて、児童福祉法と児童虐待防止法の抜本的強化策を決めたことです。その改正法は6月19日、参院本会議で全会一致で可決、成立しました。(同上紙2019年6月20日朝刊)千葉県野田市の小学4年、栗原心愛(みあ)さん(当時10歳)が「しつけ」名目で親から虐待され死亡した事件などを受けた対応です。親権者に必要な範囲で子どもの戒めを認める民法の「懲戒権」については、改正法施行後2年をめどに削除するかどうか、そのあり方を検討するとしています。一部を除き、2020年4月に施行されます。

いずれの問題も、本来の姿、問題の核心は何で、どのあたりにあるんでしょうかね。

いきなり成熟はない。成長の過程を大事にしたい

この世に、いきなり大人の成熟した人間が登場するわけではありません。やはり一があって、十にたどりつきます。つまり、徐々に発達、成長していきます。将来にとって大事になるのは、その時々の成長段階の過程です。

一人の個人もそうですし、組織としての会社も、人が関わっている限り同じです。したがって、教会も同じことが言えます。約2千年前に誕生した教会。この間、いろいろな体験をし、さまざまな時代を生きてきました。そして、時代に沿った姿、形を取り、イエスの教えを広め、そのしるしになってきたことは確かでしょう。しかし、悲しいかな、イエスの教えを説くかたわら、惰性に流され、蔓延化し、堕落していった時代もあったのです。

カトリック教会の歴史を振り返ってみると…

現代の教会はどうでしょうか。日本のカトリック教会はどうでしょうか。教会のあり方、生き方は、イエスの教えを伝える使命を有しているがゆえに重大です。実は、「わたし」の生き方そのものが、イエスを伝えるメッセージになっているのです。周りの人が、「わたしがカトリック信者である」ことに気づくかどうか関係なくです。ということは、「わたし」もイエスに任命されているからです。

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826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

今日の福音は、イエスが自分のメッセージを多くの人びとに伝えるために、72人を任命したという話です。今までの民衆とは違う、メッセージを必要としている人々が他にいるということです。このことは、新しい民を、共同体を養成し、広めなさいというイエスの意図があるように思います。日々の生活に疲れ果て、助けを求めている民が、他にたくさんいるんだ、さあ、「行きなさい」と。

イエスが72人を任命した意図はどこにあるか

真の使徒活動において、使徒たる者は、人間の貧しさ、弱さゆえに重荷を背負いきれていない人の姿に、共鳴、共感することを学び取ることが重要です。このことをイエスは派遣するにあたって弟子たちに語るのです。同じく、今日、わたしたちにも語っているのです。「あなた方は財布も袋、また履き物も携えてはならない」のです。持っていくものはといえば、「平和」です。これは、表に見える姿とは関係ありません。イエスご自身が貧しく、苦しみを背負いながらも、多くの人びとに柔和な、平穏な心と希望を与えてきた、その生き方を引き継ぐように、真の使徒たちに求められたのでした。真の平和の使者となるようにとの、イエスの思いが込められています。

表面はみすぼらしく見えても、多くの人を富ませてきたイエスのように富ませ、何も持っていないように見えても、すべてをもっているイエスのように平安を与えることができるのです。なぜって、「選ばれた者」「派遣された者」として、人々の置かれている現実に共鳴・共感できているからです。そうあることを追い求め続けましょう。

使徒たち(12人)でさえ、イエスの直接の援助と時間と行動の積上げを長年体験してここまで来たのです。今のわたしたちも当然のこと、日々の生き方の中(使徒活動の現場)で、そうありたいと積み上げているのです。これが「信仰生活」でしょう。必ず、イエスがともに、その傍らにいてくださっているのです。

「わたしの姿」はこうして作られていきます。「懐手」の姿であろうがなかろうが、「人として、信仰者として」の本来の姿であること(わたしたち一人ひとり、この姿をどのように捉えていますか?)、それが、真の使徒活動の始まりでは、・・。

 

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