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年間第14主日:「神思う心にまさる神心」日々の生活の中で気づきたい

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年間第14主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第14主日(B年)の説教=マルコ6・1~6

2021年7月4日

 「みなさんでぃ(373Sun―Day)」のコーナーに掲載されている『老い(自分)にも言わせて』の投稿文の話です。(南日本新聞2021年6月27日朝刊) 「この父あって」というタイトルで募集されたものです。父の日にちなんで寄せられた原稿だったようです。

『老い(自分)にも言わせて!』の記事から

そのほとんどが明治生まれの、今は亡き父を持つ子どもさんからのものです。その子どもさん自身も今では、みなさん、70歳代から90歳代の方々ばかりで、いいおじいちゃんおばあちゃんなんでしょうね。投稿文を拝見いたしますとその温かさが伝わってきます。

寄せられた内容は、共通する明治生まれのお父さん方の特徴がうかがい知れます。それは、頑固者であること、働き者である、口下手だけれどもやさしい父である、そして、父亡き後にわかる、ほんとうのやさしさをもちあわせている、ということではないでしょうか。

薩摩川内市のめいちゃん(75歳)のお父さんの話です。農業一筋のお父さん。4男7女の子だくさん家族でした。彼女は六女でしたが、「六女」というのが恥ずかしくて「下から二番目です」と話していたといいます。

お父さんについて語っています。「ある朝、いつものように二人の自転車を磨いてくれていた父が『いつまでもこげな朝が続けばよかどんね』とぽつり。おしゃべりに夢中だった私と妹は『早く』『行ってきます』と言い残し、ピカピカになった自転車に乗り、木戸を曲がった。あの時の父は60代半ば。下の娘二人もいつか家を出ていくという寂しさを感じていたのだろう。私も自分の子どもたちが巣立った今は、父の気持ちが分かる。あの朝言い忘れた『ありがとう』を父に伝えたい」と。

多くの人は親が亡くなってから親心を実感

自分の父親だけではなく母親にも同じような気持ちを抱く人は多いのではないでしょうか。このことは古今東西を問わず、あらゆる地域に居住している「人間」に共通する思いのような気がします。「親思う心にまさる親心」ということでしょうね。しかし、このことに気づくのは、先の投稿者たちのように、親亡き後で、後悔先に立たずです。

日常、わたしたちは自分の周りにいて、自分のために配慮してくれる方々の振る舞いをありがたく感じているでしょうか。時にはうさん臭さを感じながら接していないでしょうか。

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つまり、わたしたちは、今日の福音書の中で、イエスの説教を聞いて反応している人々と同じようなふるまいをしているのでは、・・。イエスのありがたみを感じるよりも、自分たちの都合(先入観)が優先され、イエスの業が示している真実(神の神秘)を、あえて、ゆがめて受け止めているのではないか、まさに、「親不孝」ならぬ「神不孝」です。

「神の神秘」を常識の範囲で捉えがちでは

イエスの言動は、明らかにわたしたち人間の常識の理解範囲を超えています。だからといって、「変人」扱いするのもどうしたものでしょうか。このことは、わたしたちの日常でも体験することです。いわゆる「あまのじゃく」と称される人って、一般的にそのように見られている傾向が、・・。

とはいっても、人はみな、日常の安定感を会得したいのです。その取得のあり方にそれぞれの違いがあるということではないのでしょうか。また、その安定感にも個人差があるのは否めません。あまりにも利己的であったりもします。

きょうの福音の話に出てくるイエスの郷里の人々にも同じようなことが言えます。イエスが語る言葉と内容、その仕草に、これまでの説教人とは違った風格を感じとります。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

イエスの発する言動を、日常性という覆いの中に閉じ込めてしまいました。人間常識の範疇を超えてとらえることができなかったのです。日常性を保ちながら救いをも期待していたのです。救いのその先の世界が見えない、想定できないだけに今の安定した生活にしがみついてしまいました。これが、イエスを拒絶した人々の論理です。

イエスの言動は常識をはるかに超えている  

今のわたしたちにも同じような誘惑があります。願わくは、双方を満喫できればこの上ないとの思いが、いつも目の前をちらついています。だからこそ中途半端な、吹っ切れない自分を感じて、それがまたわたしたちのあらたな悩みとなって覆いかぶさってくるのです。いつまでたっても悪循環です。

イエスの弟子たちも同じような葛藤を繰り返しながら、最後はイエスにすべてを投げかけられるようになりました。はじめからイエスにすべてを委ねることができたわけではないです。十字架を前にして散り散りに逃げ去っていったのです。それが、最後はイエスの神秘へと導かれていきました。どうして? なんといっても、彼らの中に、真の救いを強く望んでいたことがあります。道草を食ったとしても、その思いだけは捨てることがなかったのです。

わたしたちも日頃、これだけは、という自分の中にある譲れない何かに気づいているでしょうか。必ずあります。それが、神とのかかわりの中から生まれ出たものであれば、もっと大事にしたいですね。自ずと、わたしたちの日常が元気に、明るく、楽しいものになります。

要するに、信仰者であることのありがたさ、イエスへのありがたさを感じているのか自問自答してみましょう。人前にそっと見せることはあっても、威張り散らすことではないでしょう。しかし、神の前には大いに誇りたいですね。

「神思う心にまさる神心」ということに、日々、生きる中で気づきたいです。やはり命あるうちに、・・。

 

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