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年間第15主日:イエスが弟子たちを2人一組で派遣したワケを探りたい

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年間第15主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第15主日(B年)の説教=マルコ6・7~13

2021年7月11日

外見も中身も、一人一人違うのが当たり前

「私は私 一人一人違って当たり前」という見出し活字が目に留まりました。(南日本新聞2021年7月5日朝刊) 「私は初対面の人に、いつも同じ質問をされます。『どこのハーフ?』。茶色の髪、茶色の目、真っ白い肌。目立ちたくなくても目立ってしまう」と投稿している、鹿児島県さつま町在住の高校2年生のご意見です。その生徒さんは小川慈英さんといいます。

彼は、その投稿文の中で、「居心地はよくない」「小学生の頃はコンプレックスでしかなかった」「いじめに遭うかも」と不安に思っていたといいます。ところが、彼の不安に反して、これまでいじめられたことがないのです。「それはとても幸運だったし、周りの友達や環境に感謝している。ありのままを認めてくれる友達のおかげで、私のコンプレックスは今、半分くらい『自信』に変わってきている。『私は私』、そう思える」と記しています。

彼の外見を、仲良くなるための、理解するための接点として質問してくれるのはうれしいと言います。そして、彼が言いたいことは「外見も中身も、一人一人違うことが当たり前。そういう考えが、早く世の中の『当たり前』になってほしい」ということです。

一人ひとりが違うということは、だからこそ、一人ひとりの存在は価値があるし、尊い存在なんだということではないんでしょうか。

自分を知れば他人のことも大事にできる

小川慈英さんが投稿した同じコラム「ひろば・若い目特集」の欄に、鹿児島大学1年の長谷川遥さんの投稿文もあります。彼は、「大学生活は、自己理解をしていく期間にしたい」と意志表示しています。

「自分を知る」ということは、自分を大事にすることであり、それにより、他人が分かるということでもあるでしょう。つまり、そのような人は、他人をも大事にしていく人になっていくということです。

自分を知り他者を大事にした典型はイエス

その視点から考えますと、イエスほどに自分のことを知り、他者を大事にした人はいないでしょう。このことを弟子たちにも十分に見せ、伝え、弟子たちも不完全ながらも、だからこそ、イエスへの全き信頼を大事に、派遣されていくのです。

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弟子たちが派遣されるまでに至ったのは、それまでのイエスと弟子たちのかかわりにあるといえます。そもそも、イエスは何のために弟子たちを呼び寄せたのでしょう。今日の福音書の話と合わせて、マルコ3章13節以下の12使徒選びのできごとを見てみましょう。この個所で、イエスは「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と書き記されています。

明らかに、将来、弟子たちを宣教に派遣することが意図されています。そのために、イエスが何をしたのかといえば、彼らと生活をともにしたのです。ご自分の生き方を、生きるさまを見せて、ご自分と一つになることを願っていたのです。現に、弟子たちへの「特別教育」がなされていきます。その典型的なのが、ご自分が話したたとえ話について、群衆が立ち去った後に、弟子たちに密かに説明をされるのです。

宣教はイエスを語ること、語っていますか

それは、宣教はイエスを語ることであって、自分たちの考えを語ることではないからです。だからこそ、イエスの神秘をとことん理解し、確信もって語ることができるように準備しておくことは、当然求められることでしょう。そのために、イエスとの日々はとても大事な一日一日になっていたのです。

現代に生きるわたしたちはどうでしょう。イエスを語っているのでしょうか。イエスと生活をともにすることはできません。弟子たちのように、イエスより直接に教えを教示してもらうこともありません。「見ないで信じる者は幸い」な者の一人に、もっと確かな存在者になれるように、日々の人との出会い、また、日々捧げる祈りを通して、前に進ませていただきましょう。わたしたち一人ひとりを心にとめてくださっているからです。

得てして、倫理的に走りがちな「わたし」、いとも簡単に他者を批判・非難している「わたし」に、ひょっとしてなっていないか、そのようでは、イエスが言う宣教には程遠い振る舞いになってしまうのでは、・・。実際、一人でいるよりも誰かと一緒に何かをしている方が、自分の成長のためにもお互いのより良い前進のために力となります。一人ひとりが違うということはそのためにも貴重なものです。

弟子たちを2人一組で派遣したイエスの狙い

そして、イエスは今まで育ててきた弟子たちを、当初の計画の通り、宣教するために二人ずつ組みにして派遣します。これまで、弟子たちにかかわってきたとはいえ、イエスが二人ずつの派遣にしたのは、人間の弱さ足りなさを十分知ったうえでの派遣だったのでしょうか。一人では十分でなくても二人がいると、より前に進める動きができます。

さらには、当時、重要なことがらについての証言は、二人以上の証人を必要としていたのです。このことは、イエス自身、弟子たちの働きを通して、ご自分の神秘を公にしていくことを意図していたことをも表します。弟子たちの仕事(奉仕)は、イエスの神秘の証人であるということです。

今に生きるわたしたちは、直接イエスの教示を受けることはできません。しかし、イエスを「見ないで信じる人」になっている今、弟子たちと同じ歩みが求められていることは間違いないでしょう。イエスが旅のために必要なものまでも置いて行きなさいと言われるように、弟子たちの覚悟は命がけだったのです。だからこそ、華美な外見は宣教のために必要ないのです。

一人ひとりが持っている個性を自らが十分知ったうえで、「百人百様」の聞き手に、「百人百様」のみことばの奉仕者が自然に準備されていきます。宣教は日常的な素朴な活動です。

「私は私、人は人」されど、これらが一人称複数形「わたしたち」になることが、目指す宣教者の姿なのでは、・・。

 

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