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年間第14主日:イエスを追い続ける何かに、忍耐強くこだわってみよう

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年間第14主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第14主日(B年)の聖書=マルコ6・1~6

2024年7月7日

わたしたちの周りには、たくさんの、そして、それぞれが価値観の異なる人々が、だからこそ、お互いに助けあいながら、お互いの幸せを願いつつ、支え合いながら一生懸命生きています。お互いがお互いに奉仕しながらの日々です。

とはいいながらも、事故・事件が起きないというわけではありません。生きている限り、人も物事も動いています。その過程で予期しないこと、望んでもいないことなどが起こってくることがあります。中には、わたしたち共同体の、そして、ものごとの調和を乱しに来る人、あえて協力しあうことを拒否してくる人は、いつの時代にも存在しています。

最近、多くの人が関心を寄せられたと思いますが、次のような事件がありました。

「障害者向けグループホームを全国(12都県)で展開している運営会社「恵」(めぐみ)の事業所が利用者から食材費を過大に徴収していた問題で、厚生労働省は会社が組織的に不正に関与していたとして、運営するほかの事業所についても今後、指定の更新を認めない措置を取ると会社に通知しました。東京・港区に本社がある「恵」が運営する障害者向けグループホームをめぐっては、利用者から食材費を過大に徴収したり、障害福祉サービスの報酬を不正に請求していたことが明らかになっています。
厚生労働省によりますと、食材費の過大徴収は、6月20日現在、全国104の事業所のうち77か所で行われ、過大徴収の総額は、2億9900万円あまりにのぼっています。」(NHK Web News)

また、厚生労働省は業務管理体制に問題があるとして改善命令を出しました。これは、障害者福祉サービス施設の大手運営事業所に対する初の連座性適用です。指定取り消しの5か所を除く99カ所(定員1710人)に連座制を適用します。ホームのほか、併設されている作業所など約30カ所にも適用されます。これにより、多くの利用者が行き場を失う恐れがあり、関係自治体による受け入れ先探しなどが本格化しています。因みに、104カ所の利用者の定員は1824人。(南日本新聞2024年6月27日朝刊)

いつの時代にも、「お金」はなくてはならないものであることは間違いないです。それだけ、わたしたちの日常の生活に占める比重は、言うまでもなく大きいということです。だからこそ、お金にまつわる様々な問題、事件も後を絶ちまません。いわゆる、お金に対する「飢えと渇き」を感じる人にとっては、お金が手元にないと何かさびしい感がするのでしょうか。それを取得するためには、ありとあらゆる手段を講じて、また精いっぱいの知恵を絞りだして獲得に向かいます。

先に記した「恵」の事件も、その一つではないんでしょうか。「不正」な手段を用いて、しかも安易な方法で手に入れようとします。いくら巧妙に計画したとしても、いつかは明るみにさらけ出されるのです。そして、不正に取得したその何十倍もの「つけ」が返ってきます。

年間第14主日:この人は、大工ではないか。人々はイエスにつまずいた
年間第14主日(B年)の聖書=マルコ6・1~6 〔そのとき、〕イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。

何事も秘密裏に事は進まないのです。イエスは言われます。「イエスは、まず弟子たちに話し始められた。『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。』」と。(ルカ12章1~3節)

今日の福音書のエピソードは、故郷に入ったイエスについてです。いわゆる、イエスの里帰りです。故郷ですからイエスのことはよく知られていました。そのイエスのもとに民衆が集まってきたのです。彼らには「救い」に対する「飢えと渇き」がありました。なにがなんでも取得したい「救い」のメッセージでした。そして、目の前で行われてきたイエスの業を見て、人々は「驚いた」のです。その言葉には、ファリサイ派の人々、律法学者たちの話し方とは全く違ったのです。彼らはその違いの大きさに驚くだけではなく、「権威ある新しい教えだ」と口ずさんで、その反応を示すのです。

「驚いた」もう一つの根拠があります。それは、初めて人々の前に出てきたイエスであるということです。そのイエスが、人々へ衝撃を与えたのです。その語り方、語っている内容は、今まで自分たちの前で、その役割を果たしてきた指導者たちとは明らかに違っていたのです。今までは感じることがなかった力強さと落ち着き払ったその所作には自信がみなぎっていたのでした。人々は、イエスが並の人間ではないぞということに気づかされていきます。

その一方で、「『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。」者がイエスの故郷にはいたということです。「驚き」を感じる人がいれば、「つまずく」人もいたのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と、忍耐強く問い続けることができませんでした。出来合いの身近な世間的な常識の世界にとどまってしまったのでした。「この人は、大工ではないか」に戻ってしまいました。

イエスとの出会いにたどりつくことはなくなったのです。

さて、今のわたしたちはどうでしょうか。何に飢え乾いていますか?

 

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