年間第30主日

2018年/B年説教=神への道標

年間第30主日: どんな痛み、悲しさにも敏感なイエスに必死に叫ぼう

わたしたちは「必死に叫んでいる」でしょうか。今置かれている現状を訴えているでしょうか。願っても、祈っても埒があかないんじゃどうしようもない、で終わっていないでしょうか。人間の痛みと悲しさに敏感なイエスさまです。新たに勇気をだして、神への信頼心をもって叫び、訴えてみましょう。
日曜日の聖書

年間第30主日:「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

年間第30主日(B年)の聖書=マルコ10・46~52 イエスが弟子たちや多勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
日曜日の聖書

年間第30主日:最も重要な掟は神を愛し、隣人を自分のように愛すること

年間第30主日(A年)の福音=マタイ22・34~40 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第30主日:神の恩恵を具体的に自覚して「神の側」に立っているか?

いつの時代も、何事に対しても、その人の「側に立つ」ということは、その人の恩恵に与ったという自覚の大きさに比例します。はたして、大恩ある「神の側」に立っていますか、いませんか、・・。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第30主日:勇気を振り絞って、ありのままをイエスさまに訴えよう

今のわたしたちも、叫び続けるのです。願い続けるのです。人の非難をする前に、自分の罪をそのまま差し出すのです。いくら格好をつけようとしても、通りません。「ありのまま」がいいのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第30主日:神の心に触れる祈りが、神のあわれみを引き寄せます

【祈りのポイント】育ちや経歴の良さには関係なく、神の心に触れる祈りができるかできないかが、神のあわれみを引き寄せる分かれ道となりそうです。神のあわれみにまっすぐに響く祈りは、・・・?!
日曜日の聖書

年間第30主日:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

年間第30主日(C年)の聖書=ルカ18・9-14 〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
2010年/C年説教=神のまなざし

年間第30主日:祈りは神の心に自分の心を合わせようとする行い

祈ることが苦になるとき、むずかしさを感じるとき、隣人に対する自分のあり方はどうなのかを振り返ってみること。思い当たるところがあったら、そのわだかまりに注目してみること。そのことを訴えることも立派な祈りになります。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第30主日:祈りは、他者との関係から生まれてくる「わたし」の奉献

祈りは実に単純、簡潔、飾り気がありません。取税人は顔もあげず、罪深い自分をあわれんでください、とだけ訴えます。それ以上は要らないのです。隣人を責めるでもなく、ひたすら自己のみじめさをさらけ出します。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第30主日:イスラエルでは、神を愛することがなぜ掟だったのか

日本的な言い方をしますと、神さまは、イスラエル人の「恩人」でした。いわゆる、神に「義理」があるのです。その限り、どんな方よりも、優先しなければならない存在者なのです。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第30主日:わたしの存在は自分の力ではなく神の恩恵による

神をたいせつにする根拠は、神から受けた「恩義」。イスラエルではファラオの奴隷であった民が、神によってエジプトから導き出されたという事歴史的事実から、神を大切にしなければいけないという結論が出ていました。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第30主日:「あなたが信じる神はどんな方?」と問われたら

年間第30主日(B年)の説教=マルコ10.46~522012年10月28日 わたしたちは毎日、たくさんの方と出会い、いろいろな出来事に遭遇し、知らず知らずのうちに、それらに感化されています。その体験が豊かな人ほど、人間性が豊かであり、平安で...