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年間第30主日

日曜日の聖書

年間第30主日:最も重要な掟は神を愛し、隣人を自分のように愛すること

年間第30主日(A年)の福音=マタイ22・34~40 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

年間第30主日:「隣人愛」、それは神への「わたし」の感謝の応答

「わたし」は神とのかかわりを求めているでしょうか。神の愛への感謝の心があれば、その行動としての表れが隣人愛なのです。だから、「愛しなさい」という掟は、救いへのお招きの言葉なのです。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第30主日:「わたし」のありのままを見てください、主よ!

ファリサイ派の人が義とされなかったのは、自分の努力によって弱さを克服しようとし、「自らを頼り」にしたことなのです。自らを「義」とすることはできません。それは神にしかできないことです。
日曜日の聖書

年間第30主日:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

年間第30主日(C年)の聖書=ルカ18・9-14 〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
日曜日の聖書

年間第30主日:「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

年間第30主日(B年)の聖書=マルコ10・46~52 イエスが弟子たちや多勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

年間第30主日:「わたし」に向けられているイエスの優しさに触れ、感じたい

今のわたしたちに必要なことは、自らの醜さと穢れをイエスの前にさらけ出すことです。盲人が勇気を出してイエスの前に自分を見せたのと同じように。その背景にあったのは、彼の「信頼と勇気」です。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

年間第30主日:強制ではなく自ずと湧いてくる有難さの表れが「愛の掟」

イスラエルの民は「出エジプト」という出来事に、神への愛の根拠がありますが、今のわたしたちにとっては、イエスの十字架の贖いという普遍的な根拠があるのです。イスラエルの民同様に、神からの一方的な恵みの賜物です。
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

年間第30主日:自ら誰かの隣人になること。これが神を愛している人の証

イエスは、隣人との関係がいかに大切であるのかについてお話になっています。「自らが隣人になっていく」ことは、神を愛しているしるしになっていくのです。ファリサイ派の男は、徴税人の隣人になることを、その祈りによって拒んだのに対し、徴税人はそれらを神の手に委ねて良しとされたのです。
2018年/B年説教=神への道標

年間第30主日: どんな痛み、悲しさにも敏感なイエスに必死に叫ぼう

わたしたちは「必死に叫んでいる」でしょうか。今置かれている現状を訴えているでしょうか。願っても、祈っても埒があかないんじゃどうしようもない、で終わっていないでしょうか。人間の痛みと悲しさに敏感なイエスさまです。新たに勇気をだして、神への信頼心をもって叫び、訴えてみましょう。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第30主日:神の恩恵を具体的に自覚して「神の側」に立っているか?

いつの時代も、何事に対しても、その人の「側に立つ」ということは、その人の恩恵に与ったという自覚の大きさに比例します。はたして、大恩ある「神の側」に立っていますか、いませんか、・・。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第30主日:勇気を振り絞って、ありのままをイエスさまに訴えよう

今のわたしたちも、叫び続けるのです。願い続けるのです。人の非難をする前に、自分の罪をそのまま差し出すのです。いくら格好をつけようとしても、通りません。「ありのまま」がいいのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第30主日:神の心に触れる祈りが、神のあわれみを引き寄せます

【祈りのポイント】育ちや経歴の良さには関係なく、神の心に触れる祈りができるかできないかが、神のあわれみを引き寄せる分かれ道となりそうです。神のあわれみにまっすぐに響く祈りは、・・・?!
2010年/C年説教=神のまなざし

年間第30主日:祈りは神の心に自分の心を合わせようとする行い

祈ることが苦になるとき、むずかしさを感じるとき、隣人に対する自分のあり方はどうなのかを振り返ってみること。思い当たるところがあったら、そのわだかまりに注目してみること。そのことを訴えることも立派な祈りになります。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第30主日:祈りは、他者との関係から生まれてくる「わたし」の奉献

祈りは実に単純、簡潔、飾り気がありません。取税人は顔もあげず、罪深い自分をあわれんでください、とだけ訴えます。それ以上は要らないのです。隣人を責めるでもなく、ひたすら自己のみじめさをさらけ出します。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第30主日:イスラエルでは、神を愛することがなぜ掟だったのか

日本的な言い方をしますと、神さまは、イスラエル人の「恩人」でした。いわゆる、神に「義理」があるのです。その限り、どんな方よりも、優先しなければならない存在者なのです。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第30主日:わたしの存在は自分の力ではなく神の恩恵による

神をたいせつにする根拠は、神から受けた「恩義」。イスラエルではファラオの奴隷であった民が、神によってエジプトから導き出されたという事歴史的事実から、神を大切にしなければいけないという結論が出ていました。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第30主日:「あなたが信じる神はどんな方?」と問われたら

年間第30主日(B年)の説教=マルコ10.46~522012年10月28日 わたしたちは毎日、たくさんの方と出会い、いろいろな出来事に遭遇し、知らず知らずのうちに、それらに感化されています。その体験が豊かな人ほど、人間性が豊かであり、平安で...
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