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年間第30主日:祈りは神の心に自分の心を合わせようとする行い

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年間第30主日(C年)の説教=ルカ18・9~14

2010年10月24日

神のまなざし

人はいいことが連続して起こると、「自分だけこんなに幸せでいいのかな」といい、逆に不幸なことが続くと「何で神さまは自分だけをこんなにいじめるのか」と嘆きます。とかく身勝手な存在であるといえます。でも、これが普通の人間のとる行動ではないでしょうか。人は自分が置かれた環境に満足せず、さらに上を求めていきます。ある意味で、それがあるから人の成長はあるし、全体の高まりにもつながります。

他方で、いくら高みを求め、願っても報われ続けないで一生を終える人もいます。愚痴もこぼさず、その環境にじっと耐え、ひたすらその瞬間を大事にする人たちです。そのような方に会うと、感動するというか、頭が下がります。そのような人には、優しさ、奥深さを感じます。

今日の福音に登場する二人の人。一人はファリサイ派で、一人は取税人です。祈るために神殿に上ったとあります。祈りをどのように感じているのかが、この二人の姿に現れています。

前者は、自分の生き方をあげつらい、誇りを持って神に報告しています。そう、悪いことではないのですが、いいことを、自ら良いとする判断が入っています。やっていることはいいことですが、その伝え方にトゲを感じます。

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後者は、同じく自分の生き方を報告しますが、一言「罪びとの私を哀れんでください」です。自分のみじめさをまともに神にぶつけています。何も誇るものがないありのままの生き方を、神の前にさらけ出します。

これに反して、ファリザイ派の人は、自分の弱さに気づくどころか、ましてや、他人の弱さに配慮することなどできません。ここに、ファリザイ派の祈りが聞き入れられなかった理由があります。「またこの取税人のような人間でもないことを、あなたに感謝します」という祈りは、明らかに弱さを持つ人間に対する共感のなさが示されている言葉といえます。

神は、ごく小さな一人ひとりにも心を注いでくださる方です。まさに、神の心に反する祈りがファリザイ派の人によって口にされたのです。

祈る人がまず心しておきたいことは、神の優しさです。祈ることが苦になるとき、むずかしさを感じるとき、隣人に対する自分のあり方はどうなのかを振り返ってみることでしょう。どこか思い当たるところがあると思います。そのわだかまりに注目してみることです。そのことを訴えることからはじめてみるのも立派な祈りになります。すぐに祈りが届かなくとも、必ずや聞き入れてもらえるときがきます。基本的には、神の心に自分の心を合わせようとする行いだからです。ここに謙虚さがあります。

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