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年間第32主日:カトリック者の生き方の中心にあるのは「復活」

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年間第32主日(C年)の説教=ルカ20.27~38

2010年11月7日

神のまなざし

今、幼稚園では未就園児のための対応が試みられています。初めて親元を離れるわけですから、不安一杯の子どもたちの泣き声が響き渡ります。お母さんのもとにいることがいかに安心で安全なのかがわかります。

お母さんと一緒にいるときの笑顔はなんともいえない、自信にあふれた表情です。親の顔が見えなくなると、一変してくしゃくしゃの泣き顔に変わります。中には、震えが出てくるお子さんもいます。体調にも影響が出ます。幼児期にあるお子さんにとって、親は、特にお母さんは、なにものにも変えがたい存在なのです。子ども自身にはそんな意識はないかもしれませんが、・・・。

それが年齢とともに変化していきます。親が絶対であった幼児期を経ますと、徐々に親元を離れていきます。そして自立しようともがきます。とはいえ、一番不安定な時期にさしかかります。誰でもが体験する道筋です。いわゆる、人としての生き方を学習していくのです。不変不動のしっかりとした生き方を持っている人は、この世にはいないかもしれませんが、絶えずその方向を向いて行こうとして生きることは可能です。

カトリック者にとって、生き方の中心にあるのは「復活」です。とは言うものの、はたして、この信仰が私たちの現実にどのような力となっているでしょうか。今日のマカバイ書は、復活を固く信じたユダヤの7人の兄弟の姿を見せてくれます。この書は、シリアに抵抗するユダヤの人々の姿を示してくれます。シリアはユダヤ人に偶像崇拝を強要します。ユダヤの人々は残酷な仕打ちを受けても、「復活の信仰」に裏打ちされた生き方をもって、信仰を守り抜きます。まさに、その支えは復活の信仰でした。「あなたが、わたしたちをこの世から取り去っても、宇宙の王は、その律法のために死ぬわたしたちを復活させ、永遠のいのちを与えてくださるにちがいありません」と。

このようなことを言いますと叱られますが、イエスさまを裏切り、否定したペトロや、損得の勘定でイエスさまを売ったユダの生き方に近いのが私たちの現実であるといえないでしょうか。

しかし、人並みな幸せを望むことは何も信仰と矛盾するものではありません。そうありたいと考えるのは、人として正当なものです。そして、双方(信仰と人としての望み)を共存させています。生ぬるいといわれればそうかもしれません。これが今の「わたし」であるとすれば、そのままをイエスさまの前に差し出すしかできないのです。

真実の信仰は、この共存を突き破るだけの力を持っています。マカイバイ書の兄弟たちには、その力が宿っていました。特別な恵みがあったのでしょうか。また、その恵みに素直に自らをゆだねた姿は、今日の福音のサドカイ派の姿と正反対です。

年間第32主日:神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ
年間第32主日(C年)の福音=ルカ20.27~38 復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、

7人の兄弟の信仰は、今日のイエスさまの言葉によって保証されました。これからも、たゆまぬたたかいが私自身の中で繰り返されることでしょうが、一歩でも真実の信仰に近づきたいですね。

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