『四旬節第5主日』の聖書と説教はこちら

年間第32主日

2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

年間第32主日:取り返しのきかない決定的な未来、その重みに「今」目覚める

愚かな乙女たちは、未来の現実の重大さに目覚めていなかったのです。未来の意味、自らの奉仕の重みある役務の中身をつかんでいなかったのです。「戸が閉められた」ということは、このたとえの中で重要な意味をもちます。「わたしはお前たちを知らない」という言葉は、いわば最後通告でしょう。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第32主日:信仰は日々の戦いの真っただ中で、試され、高められていく

ふるさと広報誌を編集する担当者が営々と引き継がれていったように、わたしたちの信仰も、絶えず前に進む動きを止めないことです。そこから、朽ちないものを選び、会得する道を切り開いて行く新たな力をさらにいただくことができるでしょう。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

年間第32主日:主よ!どうすれば良いのですか?日々、導いてください

イエスのような人は、他者を見る心も、外見もさることながら、もっと内面に注目します。イエスは、みすぼらしいやもめの心を、さい銭の乏しい額に見るのです。乏しい額でも、やもめがすべてを神に捧げているその心を読みとるのです。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

年間第32主日:決定的な未来の時に備えよう!神と人との繋がりを基本に

自分の周りにいるあらゆる方々から学び、教わり合いながら、新たな「自分」を目指しましょう。決定的な時の重みを感じるときに、変化が起こり、新たな歩みが始まるのではないでしょうか。
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

年間第32主日:「わたし」の自信は、射祷を大事にする日々の積み重ねの実り

わたしたちの命はイエスの十字架上の死とその復活によって、罪の力が決定的に打ち破られ、命の輝きを取り戻したのです。「イエスさまありがとう、嬉しいです」と、念じてみましょう。その繰り返しの中で、自分の信仰者としての「存在の自信」が増大していきます。
2018年/B年説教=神への道標

年間第32主日:真の権威は、各々の日々の生き方の中で培われていく

献金はいいことですが、何も自慢することでもないでしょう、とイエスさまはおっしゃりたいのでしょうか。少なくとも、献金の度に、新たな動機づけをもって捧げたいですね。自分にとって、より有意義なミサ、祈りとなりますように・・・。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第32主日:「今」の現実に魅かれながらも、未来の自分に目覚める

人は、未来の、不確かな現実よりも、確かな「今」の現実の方に魅力を感じてしまいます。また、負けてしまいます。ですから、将来の現実がどれだけ重要なのか、そのことをいかに感じるかによって、今の生き方に違いが生じてきます。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第32主日:やもめの献金は、神への全き委託の生き方を感じさせる

律法による権威づけはこのやもめにはありませんが、一生懸命神への道を歩んできたという事実の積み重ねが、すでに「権威」です。人から信頼と安心を勝ち取ることができます。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第32主日:大事なことは、「朽ちない」ものを選択できる訓練を重ねること

私たちは目先の幸せ、豊かさに惹かれ、本物を見失う弱さがあります。しかし、その環境の中で、少しずつではあっても、「神に似せて創られた」存在者として、前進できる恵みをもいただいています。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第32主日:「未来の現実」にあわせた今を変える勇気が大事

「今」を大事にしすぎるあまり、未来を軽視してしまう生き方には注意しなさいというのが、イエスさまの今日のメッセージのような気がします。当時の結婚式は、夜行われていたそうです。当時は電気はありませんから、どうしても油を使ったともしびが必要でした。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第32主日:「やもめの献金」は生活費を全部入れた

このやもめがだれよりもたくさんの献金を入れたと、イエスさまは弟子たちに断言なさいます。「この人は、乏しい中から自分のもっているものをすべて、生活費を全部入れたからである」
2010年/C年説教=神のまなざし

年間第32主日:カトリック者の生き方の中心にあるのは「復活」

イエスさまを裏切り、否定したペトロや、損得の勘定でイエスさまを売ったユダの生き方に近いのが私たちの現実であるといえないでしょうか。これが今の「わたし」であるとすれば、そのままをイエスさまの前に差し出すしかできないのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第32主日:他者に開かれた生き方が、人間本来のあり方です

「生きている者の神」との交わりは、「死」によって、途切れることはないのです。だからこそ、今、この世で信仰していることの大きな意味があります。そして、天国へのあこがれも強くなります。
タイトルとURLをコピーしました