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年間第32主日:他者に開かれた生き方が、人間本来のあり方です

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年間第32主日(C年)の説教=ルカ20.27~38

2013年11月10日

寄り添うイエス実に、人はさまざまであり、住んでいる地域によってもその人の特徴が見えてきます。今ではとても考えられないことですが、その昔、家を不在にするときでも、寝るときでも、家のドアに鍵をかけた記憶がありません。夏などは蚊帳をはり、縁側は開けっぴろげで寝ていました。平和な安心できる時代だったんですね。それとも、皆が貧しかったということでしょうか。

そうした環境で大きくなりますと、大人になっても自室のドアを開けたままにしてどこかに行くことがあっても、不思議ではないような気がします。そして、そうしておくと、人が容易に声をかけやすく、コミュニケーションを取りやすくなるのも確かでしょう。他者に開かれた生き方を形で表していると、言えなくもありませんよね。でも、そのような時代は、今では、はるかかなたの遠い昔の話になりました。防犯上からいたし方ないことでしょうが、・・・。

わたしたちの毎日は、他者に開かれた生き方が、人間本来のあり方ではないかと思います。であるがゆえに、日々出会う人との関係は生きるために是非必要なこととなります。それによって新しい見方、感性が育まれていきます。

今日の福音に登場するサドカイ派の人びとも、自己発展、成長を望むのであれば、自分の小さな世界にこだわることもないのに、と思ってしまいます。彼らは、祭司や地主などの貴族階級から支持され、保守的なユダヤ教指導者層を中心にして構成されています。そして、魂の死後の存続や報いなどを否定していたのです。それは、彼らがその信仰の唯一のよりどころとした「モーセ五書」には、それらについて明確な記述がないからです。

とはいえ、目の前に新しい教えを展開される方がいるのに、心はひかれながらも、反対してしまう彼らの行動は理解に苦しみます。しかも、彼らの考えが間違っていることが、明らかに指摘されていることがあります。

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34節以降です。「次の世」での生き方は、「この世」での生き方と全く異なると宣言されています。また、「モーセ五書」の引用を通しても指摘されています。つまり、「生きている者の神」との交わりは、「死」によって、途切れることはないのです。「アブラハムの神」であり続けるのです。

だからこそ、今、この世で信仰していることの大きな意味があります。そして、天国へのあこがれも強くなります。それは、永遠に生き続けていくことの他者への宣言になります。そのためにこそ、自己を外に向かって開き続けましょう。ともに、もっと豊かになるために。

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