年間第32主日(B年)の説教=マルコ12・38~44
2021年11月7日
未だに世界では新型コロナウイルスが話題になってしまいます。しかし、日本だけでしょうか、「ゲノム修復できず死滅」というニュースが流れました。(南日本新聞2021年10月31日朝刊)
新型コロナ流行「第5波」は収束傾向にあるが
確かに新規コロナ感染者数が急激に減速してきました。完璧というわけではないのかもしれませんが、新型コロナウイルスの流行「第5波」の収束傾向には、流行を引き起こしたデルタ株でゲノム(全遺伝情報)の変異を修復する酵素が変化し、働きが落ちたことが影響した可能性があるとの研究結果を国立遺伝学研究所と新潟大のチームがまとめたのです。
このウイルスではゲノム全体に変異が蓄積しており、同研究所の井ノ上逸朗教授は「修復が追いつかず死滅していったのではないか」と指摘しています。ウイルスは増殖する際にゲノムを複製しますが時々ミスが起きて変異が生じるようです。変異が積み重なるとやがて増殖できなくなり、そして自滅していき、そして今、収束へと向かっているのではないかといいます。
とはいっても、緊急事態宣言が出たり、それにより外出自粛の要請が続いたりしました。結果として、わたしたちの日常生活にも、大きな変化が生じてきたのは事実です。中でも、最近、とみに心配になってきたのが小学生の「成長・変化」に関することです。心身にわたる成長がかなりの影響を受けているのではないかと懸念されます。小学生のみならず、幼稚園児においても同じではないでしょうか。この時期にいる子どもたちは、いろいろな面で成長過程の真っ只中にあるからです。
自粛生活で児童の運動機能が低下したとの報告
わたしたち周りの者にとっては、子どもたちの見える部分の変化についてのみわかります。しかし、その前にあるのが、表に見えないところでの成長・変化ではないでしょうか。いつもですと、いわゆる、人としての成長の土台作りがまずなされているのです。その「土台作り」が「自粛生活」により狂ってきたというのです。
愛知県三河青い鳥医療療育センター(岡崎市)などのチームがまとめた内容によりますと、特に小学校一年生を対象にした調査結果ですが、転倒リスクが1.9倍になったとのことです。(同上紙)自粛生活でバランス機能が低下したのが一因と見られるとしています。
同センターの伊藤忠専任研究員(保健医療学)は「6~7歳は運動機能の発達に重要な時期。コロナ前のように、たくさん遊んで体力をつける必要がある」と指摘しています。
一方、一週間当たりで息切れしたり汗をかいたりする運動の時間は一時間長かったのですが、・・。例えば、片脚で立っていられる時間の身体機能の調査をした結果は、コロナ以前は65.3秒だったのが、後は43.4秒となっています。また、体脂肪率も前は10.8%だったのが、後は13.1%へと変化しています。
運動の時間は増えているのにこの結果はどうしてなのか。伊藤専任研究員は「集団で外遊びする機会が減ったため、運動時間は増えたものの体の発達に必要な負荷が掛からなかったのではないか」と推測しています。
見えない所にある基礎作りは全ての方面で重要
表に見えないところでの運動・作業がいかに大事なのかがうかがえます。建物についても、学問の世界でも、その他のもの作りの分野でも、「基礎」にあたる部分がおろそかにされると、その先が望めなくなります。仮に完成したとしても、何かもろいものになってしまいそうです。
「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコ12・38-40)
これは今日の福音書の始まりのみ言葉です。外見に見える衣装等は権威の象徴ではあるでしょうが、「権威」そのものではありません。律法学士は、ユダヤの宗教上の指導者として重要な役割を担っていました。それゆえに、社会的にも高い地位についている人で律法の研究をし、律法上の発言力も持ち合わせていました。同時に、人からも大事にされていたのです。
イエスはみすぼらしい寡婦の内面に注目した
イエスはこのような指導者に対して攻撃をしているのではなく、ただ、彼らのごまかし権威に身を任せることのないようにと、人々に注意を促し、その気持ちを落ち着かせてようとしているのです。律法学士が、いつの間にか中身のない権威にしがみついて、指導者を名乗っているだけになってしまっているからです。
やはり権威は、スポーツの世界であれ、芸術の世界であれ、さらには、宗教の世界であれ、一生懸命その道に生きてきたという歴然とした事実が大事になってくるのではないでしょうか。それがあってこその権威といえないでしょうか。地位や名誉、さらには金があっても、それが感情まかせの気ままに流された権威は、「偽善」以外のなにものでもないとイエスは言われるのです。
その人の信頼も、外見には見えないところで、大事な土台となる、基本的な「本物」が培われていくのでしょう。イエスもそうでした。もっとも、ファリサイ派等のユダヤの指導者たちには、初めから終わりまで認めてもらえなかったのですが,・・。
イエスのような人は、他者を見る心も、外見もさることながら、もっと内面に注目します。イエスは、みすぼらしいやもめの心を、さい銭の乏しい額に見るのです。乏しい額でも、やもめがすべてを神に捧げているその心を読みとるのです。第一の最大の掟は、このやもめの心に息づいています。
わたしたちは今、どうすればいいのですか、イエスさま。日々の「わたし」が生きている現場で導き、お恵みください。
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