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年間第32主日:「わたし」の自信は、射祷を大事にする日々の積み重ねの実り

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第32主日(C年)の説教=ルカ20・27~38

2019年11月10日

人の自信はどこから来ると思いますか?

わたしたちは、「もっと自分を信じて」とか「もっと自分を大事に」とか、よく思ったり、言ったり、聞いたりします。そのようなときって、先ずはなんといっても「自分」だよという気分ですよね。とにもかくにも、自分の存在価値、能力の評価があってこそ、ものごとを先に進めることができるということでしょうか。

「能力の自信」の拠り所は分かっても…

確かに、自分の「能力の自信」は、特定のスキルに関してはついてくるでしょう。外国語、プレゼンテーションやセールスのスキルなどは、能力がともなってこそ自信が持てます。

存在に対する自信の根拠はどうですか?

しかし、自分の「存在に対する自信」は、スキルの能力の自信とは少々別物ではないでしょうか。つまり、能力の高い低いで、自身の「存在価値」を推し量っていては、発展性のない「わたし」になりはしませんでしょうか。そしてまた、人の能力やその評価は、いつの日か失せてしまうものです。とはいっても、その人の「かけがえのなさ」が失せることはありません。そこにこそ、存在価値の根拠があります。

そうなんです。わたしたち一人ひとりは、「かけがえのない存在者」なのです。他に「わたし」に代わり得る者はいないのです。したがって「大切な」存在者なのです。

日本には自信を表に出さない文化があって

と、声高々に言っても、日本人として、「それはわかっていても、・・」と二の足を踏んでしまうのではないでしょうか。なぜって、わたしたちは「奥ゆかしい」とか「謙虚である」ことが、「美」とされる文化の中で育ち、出る杭は打たれ、脳ある鷹は爪を隠すがかっこいいとされる文化を是としているのです。なので、自信満々にしていると、陰口をたたかれたり、美徳じゃないとされているのです。したがって、できることも「できない、そんなことはない」と口に出して控えめにしていることが、自分でも気づかないほどに、自ずと身についてきたのではないでしょうか。いわゆる、「自己肯定感の低さ」が際立ってきたのではないかと思います。

年間第32主日:神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ
年間第32主日(C年)の福音=ルカ20.27~38 復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、

そこで、聖書の登場人物を見てみますと、かなり違いがあるのかなと思ってしまいます。きょうの登場人物、サドカイ派の人々は、自分たちのよりどころとしてきた「モーセ五書」の教えを根拠に、イエスに相対します。

サドカイ派は、自信満々にイエスに挑戦

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』(申命記25章5節)と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

自信満々の挑戦です。要するに、イエスに「復活」の有無を問うているのです。モーセ五書の中に、復活に関する明確な叙述がないからです。

イエスは来世の推測はすべきでないと返答

これに対してイエスは、彼らの主張の誤解を指摘します。つまり、次の世での命のあり方は、この世でのそれとはまったく違うということです。したがって、この世のあり方の視点に立って、次の世のあり方を推測することはあってはならないとおっしゃるわけです。この世では、死があるので子孫を通して自分が生き残れるように、結婚して子どもをもうける必要がありました。しかし、「死者の中から復活するのにふさわしい」者は、もはや死ぬことがないので、めとることも嫁ぐことも必要なくなるのです。

サドカイ派はこの世の生活形態が死後の世界にも続くと考えたので、「だれの妻になるのか」心配になったというわけです。とはいっても、彼ら自身は、死後の世界の生命については否定しているのです。にも拘わらず、大胆にもイエスに質問を投げかけたのでした。

自己アピールに長けた人でも結局は・・・

人によっては確かに、自分をアピールすることに長けた人がいます。しかし、み~んな一緒がいい、逆に一緒じゃないと、人と違ったら「おかしい」と思われはしないかと思って静かにしている人もいるのです。

実に、わたしたちの命はイエスの十字架上の死とその復活によって、罪の力が決定的に打ち破られ、命の輝きを取り戻したのです。イエスのわたしたちに対する愛ゆえです。わたしたちの日常の営みの裏で、それを支え、土台となっているイエスのわたしたちへの愛に、より具体的に感謝を表すとすれば、なにがあるでしょうか。その時々で感じ、感じた ことを「射祷」の形でイエスに伝えることがあり得ます。

私たちの「自信」の根拠は、イエスにある

こうしたことは、かけがえのない「わたし」として、他者に遠慮することなく大手を振ってできることです。そして、ふさわしいことだと思います。わたしたちがこだわらなければいけないのは、究極的に「イエス」です。わたしたちの「自信」の根拠は、イエスにあります。そして、わたしたちを日常の時々で、支え続けてくださっているのです。たとえ、サドカイ派の人たちのように、しっかりと語ることができなかったとしても、・・。

イエスの言葉に戻りつつ(聖書)、毎日の生活の中で、嬉しかった、楽しかった時に、「イエスさまありがとう、嬉しいです」と、念じてみましょう。その繰り返しの中で、自分の信仰者としての「存在の自信」が増大していきます。

「イエスさま、今日も、心身ともに元気に新しい朝を迎えることができました。感謝

 

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